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源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか-音楽美学と心の哲学』【基礎教養部】

https://www.j-lectures.org/music/kanasiikyoku/

書評は上のサイトを参照。


本を読んだ感想など

まず、この本は論理の流れがとてもわかりやすい。本書冒頭の「各章概要」では各章でどのような内容を述べるかが要約されており、本文中でも要所要所でこれまでの論理展開のまとめやこの後の方針がまとめられていて、頭を整理しながら読むことができる。この本は、全10章から構成されているが、最終章「悲しい曲の何が悲しいか」に向かって、論理が積み上げられている。そのため、できるだけ一気に最初から最後まで本書を読むことをお勧めする。また、途中でこれまでの内容をざっと見返したい時は、以下のSYM.さんのNote記事が参考になると思う:

他の特徴としては、本書で登場する具体例がわかりやすいということである。以前読んだ岡田暁生『音楽の聴き方-聴く型と趣味を語る言葉』では、音楽についてある程度知識がないとわからないような具体例が多かったが、本書ではそのような具体例はあまりなく、誰でもわかるような具体例が多くあげられていてとても読みやすかった。

本書の結論部分について

ネタバレになるのだが、本書の結論部分を引用してみる:

本章の考察をまとめよう。悲しい音楽の何が「悲しい」のか。まず言えるのは、その音楽は「悲しい」と呼ぶにふさわしい輪郭をもっている、ということである。だが、その輪郭がなぜ「悲しい」と呼ばれるのかについて、類似説とペルソナ説は異なる意見をもっている。類似説によると、その輪郭は〈擬似的な表出〉を聴き取るための擬人化を促すものだが、ペルソナ説によると、その輪郭は〈擬似的な主体〉の表出を聴き取るための想像を促すものである。

本章で主張したいのは次の二点だ。第一に、こうした擬人化と想像は、概念的には区別できても、心的能力として区別できるかどうか定かではない。むしろ、異なる概念で同じ心的能力を指している可能性がある。第二に、音楽のうちに情動を知覚する能力は、認知的に侵入可能な状態であると考えられる。そのため、鑑賞者が適切な知識や態度をもっていれば、基本情動だけでなく高次情動も、意識的・能動的な解釈や熟慮なしに、音楽のうちに聴き取られると考えられる。

源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか-音楽美学と心の哲学』第10章 p186

まず、「異なる概念で同じ心的能力を指している可能性がある」というのは、科学で用いられる考え方と構造がよく似ている。例えば、量子力学には波動力学と行列力学の2通りの定式化の仕方がある。この2つのやり方はほとんど同時期に別々に提唱されたものだが、研究が進み、この2つのやり方は結局同じ結果をもたらすものであることがわかった。このように、結果は同じだが、その過程や考え方が異なるという場合が科学においてはしばしば出てくる。

本書では「類似説」と「ペルソナ説」が同じ心的能力を指している可能性があると述べられており、それを確かめるためには、心理学や神経科学といった認知科学の知見が必要だと書かれている。このように、科学の成果を利用して哲学の問題を考える手法は「哲学的自然主義」と呼ばれ、本書もこの手法の影響のもとで書かれているが、「哲学的自然主義」という手法は哲学の本来の意味的にとても理にかなっていると思う。哲学は知識を探究する学問であり、知識を探究するためにはできるだけ多くの知識・成果を取り入れた方がより答えに辿りつきやすくなるだろう。

今回の「類似説」、「ペルソナ説」の問題のように、考えられる仮説をいくつもピックアップして(実は第8章では、音楽がもつ表出的性質がどのようなものかに関してこれらの他に「表出説」、「喚起説」が紹介されていたが、これらはボツになった)最終的にそれらのうちどれが正しいか、あるいは結果的に同じものなのかを科学の成果から判断するというのは、物理学においてもよく用いられる考え方である。物理学においては、今までの理論では説明できないような現象が発見された時、それを説明するための理論を理論家たちがいくつも考える。そして、その後の実験によって、可能な理論が絞られていき、最終的に生き残った理論が(今のところ)正しいとされる。理論家たちが考えた理論を理論のみを用いて検証するのはかなり困難だろうが、実験により理論が(今のところ)正しいか正しくないかを容易に判別できる(実験事実に反している理論はすぐに棄却できる)。物理学における、理論家たちにより提唱された複数の理論を実験により絞っていくという構造は、哲学的自然主義による哲学における、哲学者たちにより提唱された理論を科学の成果により絞っていくという構造ととても似ていると思う。

また、上の引用部分に、「鑑賞者が適切な知識や態度をもっていれば」と書かれているが、適切な知識や態度をもつためには適切な学習や教育が必要である。本書前半には「美的判断の客観主義」について述べられているが、その議論によると、美的判断は人それぞれというわけではなく、ある程度正しいものと間違ったものが存在する。だが、その正しいものと間違ったものを判断する能力は勝手に身につくものではなく、それを学ぶ必要がある。私の周りの人にクラシック音楽を聴かせても、「どのような演奏が良くてどのような演奏が悪いか全くわからない」とよく言われるが、彼らは正しい美的判断のための必要な知識や態度が足りていないのである。

私は、だいたい1〜2ヶ月に1回くらいのペースでピアノを習いに行っているが、それも「正しい」美的判断、表現方法について学ぶためである。中学でピアノを辞めて以来、独学でピアノを弾いていたのだが、その時、「ある程度のレベルまではいけるがそれ以上はどう頑張ってもいけない」と悩んでいた。その悩みを解決するために今年からピアノを習い始めたのだが、やはり習う前と習い始めてからでは弾いている曲の完成度が全然違う。このように、適切な指導・教育を受けることが音楽においては大切なのである。

最近では、You Tubeにおいて音楽に関する動画がたくさんあがっており、You Tubeを見て手軽に音楽について学べるようになっているが(もちろん正しいものもあれば正しくないものもあると思うが)、その中で、最近ハマっているチャンネルを紹介して、このNote記事を締め括ろう。そのチャンネルは、「車田和寿‐音楽に寄せて」である:

車田和寿さんは、オペラ歌手であり、このチャンネルでは、クラシック音楽についての動画がアップロードされている。作曲家や楽曲についての解説動画の他、音楽教育についてなど多種多様なトピックについての動画があり、内容もとても面白いのでとてもお勧めである。

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