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私は私であればいい

心のつながりが無くても人とある程度仲良くなるのが上手に見えたのは、他人の行動を見てただ真似していただけだからなんだと思う。

今思えばそれを的確に表していたのが後輩からの「先輩は友達止まりになる人」という言葉。
ばれていたんだな、実は心を閉ざしていたこと。
コミュ力が高くてフレンドリーな人に憧れていたから(というか人見知りの自分を全否定していたから)、自分を押し殺して他人の真似をしてたらそれっぽいことが出来てしまったに過ぎない。

仲いい人は多かったけれど、誰のことも信じていなかった。
ずっと本当の自分を否定していたから、誰にも本当の私なんて受け止めてもらえると思っていなかった。だから心を開く気にもならなかった。

世の中の常識という名の偏見に染まる前に、心のつながりから出来た友達数人にしか私は私を見せられなかった。

どうせ今見せてる表の私が好きなんでしょう?本当の私なんて誰にも受け止めてもらえないんだ。

人と関わりを深めるにつれてその考え方を根強くさせていった。


漠然とした生きづらさを抱えた私たちは、あまりにも人の言うことに愚直で、言葉のエネルギーをもろに受けてしまう気がする。

明るい人間が好かれると言えば無理にでも笑顔を作りネガティブを否定して。
諦めない美徳を説き伏せられれば自分の疲れやコンディションを無視して、嫌な事も頑張り続ける。
苦手な事も誰にも頼らず努力して。

そうして燃え尽きてしまうことは何度あっただろうか。

本当にそれは、私たちに必要なことだったのだろうか。
本当に明るい人間が素晴らしくて私たちはダメなのか?
本当に諦めないことは素晴らしくて、疲れて休みたいと思う私たちはダメなのか?誰かに頼ることはいけないことなのか?
嫌な事を諦めずに努力し続けることは美しいのか?

成功者は、幸せな人は、愛されている人は、本当にみんなそうなのか?例外は1人としていないのか?そうでなければ死んでしまうのか?


もしかしたら私たちがそう思っているだけの、私たちの世界にしか存在しないルールなのかもしれない。
明るくなければいけない、あきらめてはいけない、嫌な事から逃げてはいけない、そんなルールを作ったのは私たち。

ルールは見直してもいい。スポーツのルールだって年々少しずつ変化している。生きやすいように、自分が楽なように、ルールを変えてみてもいい。なんなら撤廃したっていい。


人それぞれ色々な背景がある。その生き方はその人の歴史だ。
元々の考え方を否定する必要はない。ましてや他人が「その生き方は✕」なんて言う権利はないし、変える権利もない。

生き方を変えられるのは自分だけだ。

自分が「この生き方が好き」と思うなら、それでいい。
例えそれが周りに受け入れられなくても、誰もいなくても、別にいい。
嫌な事から逃げたっていい。休んだっていい。周りがどれだけ頑張ることを美徳にしていても、自分も従う必要なんてない。

その勇気を、少しずつ育んでいく。
それが自分の人生を、たった1度だけのこの人生を、
納得できるものにしてくれると、私は信じている。







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