綺麗に見えなくても愛してよ
今の私のままで果たして愛されるのか、もっと優れないと愛される価値がないのでは?もっと愛しやすい女に、愛し甲斐のある女に、人間に、なる必要があるのでは無いか?
その気持ちと裏腹に、ありのままを愛してと叫ぶ自分もいて、けれど私はその声を無視して愛しやすそうな自分を演じるから矛盾と歪みが起きて、私の心は限界までひずんでしまった。
私は壊れた。
ありのままを許せない自分とありのままを愛して欲しい自分の矛盾は、あまりにも私には負荷が大きすぎる。
誰かに愛されたら解決する問題では無いし、私がありのままを許せるか許せないかの問題で。
もう1人で闘うしかないんだよな、己と。
私なら大丈夫だと思っていたのに
雨に当たりながら自転車を漕いで帰った昨晩、頭の中を何度か過ぎった「このまま死んじゃえばいいのに」が本当に怖かった。
どんな自己否定と自責はあっても、そんな安直な言葉は聞いたこと無かったのに。
「死ぬ勇気も無いくせに」、そう言って強がることしか出来なかった。
偽って愛されても「お前は私の何も見えてない」と歪むくせに、積極的に偽ろうと優れたように見せ愛されようとする。
短絡的な愛されたい欲望を見たそうとする自分と、その裏側にいる事の顛末を冷静に見守る自分。
ただどうしても心に余裕が無いと、短期的な欲望に突き動かされてしまいがち。
そもそも私他人から愛されることばっかり気にしてて、自分を愛すことを何も考えていなかったな。
いや、ありのままの自分を許せていなかったからそれの逆をずっとしていたことになるか。
ありのままで愛されるはずないって気持ちと、この私じゃダメだからって気持ちから
もっと優れた人間になれるように、優れてると思った人と自分を比較して、自分を抑圧して優れた人間を演じてみて、そしたら愛されると信じて。
でも我慢とか抑圧だから結局辛くなって爆発して全部何もかも無理になってしまう。
落ち着いて、今の自分より優れる必要はあるか考えてみれるといいな。
優れてないと思えても、そんな自分も愛して欲しいし理解して欲しい、私に。
最近、私の文章にもならない心のぼやきを呟くTwitter垢に友達を1人通した。
それからというもの、ツイートする為に自分の気持ちとか文章を言葉にする力は付いたけど、それが自分自身を理解するためじゃなくて他者に理解してもらいたいって気持ちが強くなりすぎてしまったなと思う。
そして自分自身は全くそれを理解出来てなかった、自分が壊れていく様子も多分呟きを見てたら分かったはず、だけど結局他人様に見せる用だから自分を見つめてあげられなかった。
自分自身を理解するよりも前に、「この自分見て」って他者理解を求めすぎて先走ってしまったのもきっと今回自分を壊してしまった大きな原因の1つだなと反省。
やっぱり私が1番求めてるのは、きっと自分からの無条件の愛と自分からの無条件の承認と理解
どんな私も、愛してよ私、お願いだよ
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