芥川賞を終わらせた小説
遅い。いくらなんでも遅すぎる。
主催者側のスタッフが慌て出し、
それまで保っていた厳かで格式高い雰囲気がにわかに崩れ出す。
帝国ホテル、孔雀の間。
やがて、芥川賞授賞式につめかけた関係者、報道陣、来賓、それから直木賞受賞者などおよそ1000人がざわつき出す。
それもそのはず
記念すべき第200回目の芥川賞受賞者であるA氏が現れないのだ。
もはや影の薄い背景と化した金屏風の前を司会者が右往左往している。
まもなく開始予定時刻だ。
もう待てない。
ところがだ、
「大変お待たせしております」と、司会者が言おうとしたその時。
会場後ろの入り口から1人の男が入ってきた。
時間きっちり。
スポットライトが慌ててその男を追いかける。
A氏なのか?いや、違うようだ。
髪の毛をオールバックにしたその男、何千ドルクラスの上等なスーツに身を固めて自信に満ち溢れたスライドの大きな歩き方で壁沿いをまわり、壇上まで来た。
全てがビジネスマンの所作に尽くされていて、物書きのそれではなさそうに見えた。
式の冒頭で今回の授賞の理由を述べようと脇に控えていた選考委員代表が驚きながら自分の席に引っ込む。
会場にいる者たちの視線がその男に注がれる。音がしそうなくらいに一斉に。
その男は司会者をチラッと見てからマイクの高さを合わせと、まるでグループ企業の社員たちに訓示を垂れるかのような笑みから入ってこう言い放った。
「本日、私はA氏の代理人としてやってきた弁護士のBと申します。A氏からの受賞メッセージを預かってきております。ただその内容が本文学賞の根幹を揺るがす可能性を含んでいるため、諸般の事情を鑑みた上でわたしが参った次第でございます」
よくわからない。よくわからなすぎて騒然となった。
最初ポカンと口を開けていた報道陣も慌ててフラッシュをたきだす。
この時点ではまだA氏の顔を知るものは誰もいない。
この代理人の男Bに不自然に依拠しながら式が進行していく感があった。
誰しもがこの特異な状況をいったん受け止めようとしていて、それが輪をかけて異様だった。それはどこかマンネリ化して、冗漫化したこの賞と授賞式の流れに対するある種の揺り戻しような……。
何かが起こるのを待っていたかのような……。
代理人Bはひと呼吸置いた後で、背広の内ポケットから用意していたメモを取り出して、それを広げ、マイクスタンドを挟むように両手持って読み始めた。メモはもちろんA氏の言葉として書かれている。
「まず最初にこのような歴史ある素晴らしい賞をいただけて誠に光栄であり、深遠なる感謝を申し上げます。わたくしAからの申し入れは大きく2点です。まず一つ目。今回受賞しました作品は主催者側は1作品として扱われておりますが、厳密かつ正確には当該作品は6174作品に分かれております。それについては出版社との契約書等を証拠として提出する用意があります。そして二つ目は、この作品の中にわたくしは極めて巧妙な手口で巧緻の限りを尽くして『芥川賞を終わらせる』という内容の毒薬条項を盛り込んだ次第です。主催者側と交わした受賞書類を持ってこの条項が発動する仕組みになっおります」
続けて、法律の観点からの説明が追加でなされた。
なんなんだいったい。静寂が長持ちせずに、またざわめきが起こる。カメラマン同士が小競り合いする声も聞こえる。それくらい重大な事態がここで起こりつつあった。
それに6174という数字。有名な四桁のカプレカー数だ。
適当に出したある数字にある操作をすると最後は必ず同じ数字になるというマジックナンバー……。
代理人Bは咳払いで会場内を鎮めると、再び続き話し始めた。ここからは代理人の言葉としての話だ。
「ただし、A氏は文学愛好的な立場から“主催者側に選択の余地を残す”と申されております。選択とはこの二つです。これよりあとの6174回分のすべての芥川賞をA氏の受賞とする、か、もしくは、芥川賞を今回で終わりにする、か、です」
これを聞いて今度は会場が荒れた。
批判めいた声がいくつも投げられ、尋常じゃないフラッシュ音で空気が揺れた。
日本の文学始まって以来の危機を急いで社に報告するために退席する記者もいた。
“時宜を得た話かどうかは別として”と断った上で代理人BはA氏を今回の行動に駆り立てたものは、この文学賞の物憂く繰り返されていく長すぎた歴史なのだとの主張を代弁した。
『汝、作家とならば、命短きが如くに書くべし』というソローのことばを引き合いにして、来たるべき文学的ブレークスルーへの渇望をその弁に重ねた。
A氏は芥川賞を終わらせるためにあの作品を書いたんだろうか……。なぜだろう?読んだはずなのに思い出そうとしても思い出せない……。それはつまりは、1作品として読んでしまったからなんだろうか……。
代理人Bは、「そんな権利があるのか、傲慢だ」との批判の声を受けながら、あくまでも代理人というスタイルのままマイクにより口を近づけてこう答えた。
「A氏の敬愛する作家レイチェルは言っています。『主題の方から作家を選んでくる』と。言うなればA氏はこの損な役割に選ばれたとも言えるのです」
そこで何人かの選考委員が所要を理由に席を立った。およそ純文学的な出来事ではないと、憤慨しながら。
数は限られるが質問を受けるとのことで、そこからいくつかの質疑応答があった。代理人Bはその際、まるで報道官のような体の向け方をしていた。
Q.A氏は芥川賞に何か特別な因縁がある人物なのか
A.人物の特定につながる質問には答えられない
Q.A氏はそもそもなぜこの小説を書こうと思ったのか、また、芥川賞を終わらせるための手段としてなぜ小説を選んだのか
A.シェイクスピアのことばをいくつも諳んじる人があっても彼が何のために書いたか気にする人がそれほどいないのと一緒です。これは公理なのです。公理とは証明が不用なものなのです。
Q.ではA氏はシェイクスピアなのか
ここで少し笑いが起き、Bも適度に笑って答える。
A.シェイクスピアの受賞スピーチの代理なら私は喜んで引き受けるだろう
Q.受賞した作品の主人公も何かを破壊し、何かを創造することに命を燃やす青年だが、A氏自身を投影したものなのか
A.“何かを投影した自分だ”と言っていた
Q.A氏は謎が多いが、彼が執筆しているのを見たことがあるか
A.一度だけ見たことがある。A氏は立ったまま書いていた。そして、書き始めたと同時に書き終わっていた。──すべてを。今思えば、あのときから芥川賞の最後と宿命づけられていたと感じざるをえない。
質問の受付はそこで終わった。
代理人Bは最後に「主催者側の英断を期待する」と述べてからネクタイの結び目を滑らかに撫で、軽やかに壇上を後にすると、入ってきたのと同じ場所から出て行った。
司会者が思い出したように進行を再開したあとも、興奮冷めやらないままの雰囲気がずっと残った。
ここまでの全てはネットでライブ中継もされていた。
ネット上では『売名行為だ』という声や、芥川賞の対象が新進作家なのをもじった“シン•新作家”と揶揄するものなどのネガティヴな反応も多かったが、『眠気覚めた』や『小説より奇なりより奇なり』などの中立的な反応もそれなりにあった。
この出来事の後からしばらくは文学界からのA氏に対する圧力は相当あったと推測される。
授賞作品については揉めに揉めたあげくかなり遅れて出版されたが、話題が先行していたわりには売れなかった。
その本を手に取った人たちは口々に言った。
「A氏の小説はどこからどう読んでも最後は必ず同じ行になってしまう」と。
A氏が表舞台に姿を現すことはなかったし、二度と書かなかった。A氏は芥川賞を受賞してから一度も小説を書かなかった最初の人物になった。
ちなみに、
芥川賞を管轄する主催者側は、あの出来事のあとすぐから法律や歴史の専門家を招いた話し合いを続け、苦渋の決断の末、芥川賞の約100年に及んだ歴史に幕が下ろされることになった。
終
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?