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日本の都市計画の歴史(2)

戦災復興

第二次世界大戦により日本中が焦土と化しました。
戦後日本の復興は各都市で実現されていくのですが、中でも研究が活発な東京の復興についてみていきたいと思います。
東京においては85万の家屋が全焼し、区部はその3割近い、1万5千haを焼失し、灰塵の中からの復興を余儀なくされました。
しかし、終戦直後の1945年8月27日、東京都都市計画課は早くも「帝都再建方策」を発表し、復興への一歩を踏み出しました。この計画の中心人物が石川栄耀その人です。彼への言及無くして戦後東京の都市計画を語ることはできません。

石川栄耀とは

石川栄耀は1893年、山形県に生まれます。1918年に東京帝国大学を卒業し、1920年に都市計画技師の第一期生として内務省に入省します。
入省後の渡欧で、レイモンド・アンウィン(※)と出会い、大きな影響を受けます。それまでの、産業中心の都市計画を考え直し、まちのにぎわいや余暇を重要視する「盛り場」という理論を体系化させていきます。
影響を受ける、というと聞こえは良いのですが、実際には「君の都市計画にはライフがない」と身も蓋もないことを言われています(笑)。
しかし、その後都市動態の研究を重ね、実践の場を退いても後進のための教育に熱心に取り組み、現在では、彼を記念した石川賞という都市計画分野における賞もあります。
(※)ハワードの田園都市理論をもとにレッチワースなどのガーデンシティを設計した著名な都市計画家。

帝都復興都市計画の概要

計画の中で最重要視されたのが用途地域計画です。当時の都市計画法においても、現在のそれにおいても、石川の提唱した用途地域計画が異なる性質を持っているものの一つに、純粋な専用地域という手法が挙げられます。これはどういうものかというと、例えば「商業専用地域」は純粋に商業用施設しか建築できない場所であり、住居や工場は排除されるといった、施設の混合を廃したものでした。

このような用途地域制度は実現されることはありませんでしたが、制度として確立を試みることができた背景には、綿密な都市動態の調査や都市計画における技術的進展がありました。

加えて、この用途地域制度を特徴づけるものとして、彼は特別地区を新設しようとしていました。
特別地区には、消費勧興、文教、港湾などの種類があり、より積極的に都市の形を規制誘導しようとするものでした。とりわけ、消費勧興地区には彼の盛り場論や生態的都市論から来る重きが置かれ、まちのコアとなるような配慮が見られました。それは、この地区に設定された、以下のような事項にも窺うことができます。
今でこそ、漸く電柱埋設化が進みつつありますが、都市のファサードを大切にする精神は、この頃はまだ生きていました。

一 建築及風致美に関する事項
(一)地区内建築物にして甚だしく環境の風致を害し又は街区の体裁を損すると認むるときは其の除却改修其の他必要なる措置を命ずることを得る様にすること
(二)地区内に建物を新築(改築増築移築を含む)せんとするものは其の規模外観意匠につき許可を求むるを要する様にすること
(三)建築物の排水管排気管暖房鉄管ガス管及煙突の類は前面道路に面する地面に露出せしめざる様にすること
(中略)
(五)看板広告標識等の提出に就てはその大きさ高さ意匠照明等につき許可を求めしむること
(以下略)

そして、その用途地域の中を走り、新しい都心として目された新宿、池袋、渋谷等をつなぐ街路計画を策定しました。
これら幹線街路網は、幅員が40メートルから100メートルに設定されました。

計画の実現

前回紹介した震災復興計画に続き、誇大な計画が立ち上がりましたが、激しいインフレに悩まされた時の財政はこれを許さず、ドッジ・ラインにより国庫の支出は限られ、計画は縮小の一途を辿ります。
彼はこれを受けて、財政的裏付けを確固たるものにするため、首都建設法の制定に尽力し、これが後の首都圏整備法へと姿を変えていきます。

彼の計画は一部は実現されており、例えば消費勧興地区は新宿歌舞伎町や、江東楽天地に見ることができます(彼の目していた大人から子供までが集えるにぎわいの地とはちょっとかけ離れていますが)。

東京から離れてみると、当時の戦災復興計画で概ね良好な評価を得ているのは仙台、名古屋、広島等が挙げられます。
これらの都市の計画が成功したのは、それらの街の当事者の都市計画に対する理解や熱意が大きかったことが主因となっていることは否めません。
特に名古屋や岐阜、東海地域については石川が赴任していた際、地元の関係者が薫陶を受け、先進的な土地区画整理の理論を実践していたのです。

かように、都市計画というものが一部の専門家の影響を色濃く受ける状態ではあったものの、石川自身はそれを良しとせず、都市の在り方を決めるのは最終的にはそこに住む人たちであるように制度設計を考えていました。

東京という地域を巻き込んだ二つの大計画

関東大震災、第二次世界大戦と二つの大きな悲しみを越えて立案された都市計画たちですが、なんというか、毎度大風呂敷を広げては財政に圧されて縮小していくという、悲しい歴史を繰り返しているのは、日本ならではなのでしょうか。タイミングが良くなかったと言うべきか。

しかし、これはある意味必然とも言え、デモクラシーなり富国強兵なり、欧米諸国が、もっと長い年月をかけて行き着いた場所に一足飛びでたどり着こうとするには、やはり拙速な面や人心の追い付かない面があり、それが当時の進歩的都市計画家と市井の人々との意識の乖離を生み、ひいては根強い土地信仰との軋轢を生じてしまったのではないか、と思うのです。

とは言え日本ももういい加減たくさんの年月を過ごしているのであって、今や課題先進国となっているわけですから、ここは世界に先んじて、どの国よりも真面目に新しい都市の在り方を考えなければいけないと思うのです。

次のネタ

戦災復興期を過ぎると、次は全国総合開発計画と来るのがお決まりかなぁと思いつつ、個別具体的な都市計画手法だったり、現在の都市法やその先端の研究の紹介だったり、色々思いつくのですが、んー。

参考文献

今回はほぼ一冊の本の紹介という感じになってしまいました。ごめんなさい。
 初田香成(2011)『都市の戦後 雑踏のなかの都市計画と建築』東大出版.

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