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史上最高のマイナー球団?"ポートランド・マーベリックス"

Quentin Tarantinoが監督を務める著名映画といえば『キル・ビル』や『パルプ・フィクション』ですが,私は『デス・プルーフ』がお気に入り。車を耐死仕様に改造し,若い女性が乗るターゲットの車に対向車線から突っ込むことで欲求を満たすといった頭のおかしいスタントマンの男がメインパーソンとなるんですが,良くも悪くもTarantino映画って感じです。

劇中でその狂った男を演じたのがKurt Russell。今なお,多くの映画で妙役をこなす名優です。Russellは1970年頃からエネミー賞やゴールデングローブ賞にノミネートされるような輝かしいキャリアを送った人物ですが,そのルーツはハリウッド俳優の父・Bing Russellにあるといえるでしょう。

今回のnoteは,そのBingがオレゴン州ポートランドに巻き起こした実話,MLBのしがらみに囚われない独立マイナー球団を創設したという伝説のエピソードに触れていきます。(そもそもMinorはMajorに対する単語なので,「独立マイナー球団」という表現は誤りかもしれませんが。何卒斟酌ください。)

①Bing Russell

父が水上飛行機のサービス業を営んでいたため,水辺でのレジャーが有名なフロリダ州フォートローダーデールで幼少期を過ごしたBing。奇しくもここは1930年代~1940年代にニューヨーク・ヤンキースが春季キャンプを行っていた町であり,Bing少年は野球の虜に。
ある日,選手の放ったボールを手に入れることができたBing。しかし近くにいた少年3人に強奪されてしまい激高。3人がかりの相手に対し,一歩も引かずボールを取り返すことに成功します。
そんなBingの様子を見ていたあるヤンキース選手が「いくらでもボールをやるから,二度と争うなよ」と諫めたのです。その選手は1930年代に投手三冠を2度達成した殿堂入り投手,Lefty Gomezでありました。

その後,Bingは8年もの間,キャンプに訪れるヤンキースの選手達と交流を深め,ホットドッグなどを提供する使いパシリとして貢献。Gomezだけでなく,若きスターJoe DeMaggioや晩年のLou Gehrigとも大きく親交がありました。
一番のエピソードといえば1939年,筋萎縮性側索硬化症によってレギュラーシーズンを0本塁打のまま引退したGehrigにまつわるお話でしょうか。実は同1939年の春季キャンプでキャリア最後となる本塁打を記録しており,そのメモリアルなバットをBingへ手渡していたというのです。Bingはそのバットを自分のクローゼットや傘立てに置いていたようで,後年Bingの姉の息子であるMatt Franco(千葉ロッテでも活躍)が回顧しています。

Bing自身も大学卒業後にマイナーD級クラスでプレーしますが,頭部死球によって大怪我を負い引退。その後は俳優業の道を歩み始め,1950年~60年代には数々の西部劇ドラマ・映画に出演。メインキャストというよりも,「死に役」として博しました。

とはいっても野球への情熱は相変わらず,息子Kurtとともに野球の基礎・基本動作をまとめたビデオを作成し,公開。クオリティは非常に高く,一部の球団が選手への指導に使うほどのレベルでまとまっていたようです。

この野球への深い愛は,俳優業が落ち着き晩年をゆったりと過ごしていたBingを再び突き動かすこととなるのです。

②「ポートランド・ビーバーズ」の存在

この話を記す上で欠かせないのがオレゴン州ポートランドで愛されていたビーバーズの存在でしょう。1902年に創設されると,今なお現存するPCL(パシフィック・コースト・リーグ)に加盟。その後1924年にフィラデルフィア・アスレチックスに買収され,『下部組織』としての役割を果たします。この頃から,MLB全体でもPCLなどの独立リーグに所属する球団を買収し,選手育成のために運用する動きが進んでいきます。

アスレチックスだけでなくカブス,インディアンズらの傘下組織として一頻り巡ったあたりには,PCL自体が3Aに位置するハイレベルなリーグとなっており,メジャーリーガーの卵を見るべく多くのポートランド民が野球観戦に訪れました。1961年にはニグロ・リーグの伝説的投手Satchel Paige(当時56歳)と契約し,話題に。

しかし1972年,PCLの再編成に起因してオーナーのBill Cutlerがチーム移転を発表。地域に根ざしたビーバーズの重要さを理解してもらえず,ポートランドの野球ファンは途方に暮れることとなります。

そんな空白地帯となりかけたポートランドに,一人の男が降り立ちます。一連の移転騒動を聞きつけたBing Russellです。12年続いたドラマ「Bonanza」が終わり,俳優業に情熱を失いかけていたBingは「この町に野球チームを設立したい!」という目標を持ち,住民に訴えかけ始めます。元俳優とはいえ,著名とまではいかないBingに対し,当初住民たちは懐疑的な印象を持っていました。しかし電話帳を駆使して息子Kurtと連日連夜PR活動に勤しむ姿に,次第に心惹かれていくことになります。

③「楽しむこと」をモットーに。

1973年6月,Bingの尽力によって野球チーム設立の下地が整い,選手をかき集めるためのトライアウトを実施。Bingは内心,「数十人の野球好きが来てくれれば・・・」と思いながらトライアウトの宣伝をしていたそうですが,当日にテストを受けに来たのは150を超える人数でありました。中には東海岸方面からヒッチハイクでオレゴンまで這い出てきた選手もおり,この時点で大成功と言えたでしょう。
集まった人々の年齢層は20歳代前半から30歳代後半と,野球選手としては高齢であった人もいましたが,かつてMLBの傘下球団に所属し,メジャー昇格を果たせずドロップアウトした選手も少なくありませんでした。
これは監督にも言えることで,オリオールズ傘下で活躍していたものの,同じポジションにHoFとなるBrook RobinsonがいたためにMLB定着を果たせなかったFrank Petersがのちに就任しています。

トライアウト当日であっても,Bingが選手に訴えかけたことは「野球を楽しもう!」というスローガンただ一つでありました。これに呼応するように,様々な人種・マイノリティーに属する男達がプレーすることになります。

テストを経て,30人程度の野球好きを集めることに成功したBingは,当時Single-Aに位置づけられていたNorthwest League(通称NWL。今もHigh-Aに現存)に加盟を打診。リーグ参入料はたったの500ドルであり,すぐに加盟が認められました。しかしその時点でNWLの全チームはMLBの傘下球団に属しており,Bingは唯一の”MLBに囚われていない独立球団”として闘っていくこととなるのです。

この無謀にも思えるチームの名は「ポートランド・マーベリックス」。『史上最高のマイナー球団』としての一歩を踏み始めるのです。

MLBではこのようなファームシステムが構築されている

④マーベリックスの快進撃

ファンは,ビーバーズが3Aであったのに対し,マーベリックスが1A程度のレベルであることに落胆していたのが本音でありましたが,開幕戦からノーヒッター継投で圧勝すると様相が一変。再び野球熱に沸くこととなります。

当初の予想に反して快進撃を進めるマーベリックスには多種多様な選手がいました。かつてアストロズにドラフト指名された経験をもつReggie Thomasは1973年に66試合で打率.340 OPS.974 71盗塁と大活躍。チームのスターとして人気を博します。
冒頭で紹介したBingの息子Kurtも野手としてプレー。
Larry Coltonは1968年にフィリーズでMLBデビューを果たしましたが怪我により引退。マーベリックスでは一塁手としてカムバックを果たしましたが,三度も先発登板という二刀流起用も。その後は著名な作家に転身。
左腕として貢献したRob Nelsonはのちに噛みタバコに代わって大リーガーに愛用される「ビッグ・リーグ・チュー」を発明する大起業家に。

1975年に加入したJim Swansonは左利きながら捕手を務めるなど話題に事欠かず,バットボーイを務めたTodd Fieldすら後に3度もアカデミー賞にノミネートされる個性的な陣容でありました。

1973年に45勝35敗で地区1位に輝くと,75年-76年も連覇。しかしいずれもプレーオフでは敗れるなど,リーグ優勝の夢は果たせずにいましたが,マーベリックスの躍進は全米放送で取り上げられ,遂にはかつてヤンキースでWS優勝を果たした経歴を持つナックルボーラーのJim Boutonが加入。優勝へのピースは整いました。

★補足
Boutonは通算62勝 防御率3.57という好投手でしたが,1971年に暴露本「Ball Four」を出版。Micky Mantleのアルコール中毒の様子や,MLBにアンフェタミンが蔓延っていることなどを綴った本書は野球界から大バッシングを浴びます。当時のコミッショナーであるBowie Kuhnには「この本はフィクションなんだと弁明しろ」と罵られるなど,遂には32歳にしてどこからも契約を貰えない事態に陥っていました。
とくにMantleの件に関しては,Boutonに悪意がなかったものの長年確執が続き,Mantleの晩年まで両者に対話の機会が無かったとされています。

悲願の優勝を達成すべく迎えた1977年,選手の一人である”JoGarza”が相手チームを倒した際に,ダグアウトの上に登ってホウキを掃くパフォーマンスをしたところファンに大受け。次の週には大勢のファンがホウキを持参して応援する独特のスタイルに。レギュラーシーズンを44勝22敗という圧倒的な成績で終えるころにはたった33試合のホームゲームで125,300人を動員。1試合平均3,800人というSingle-Aとは思えない数字をたたき出しています。(2021年のMiLB観客動員を見ても,この数値を上回ってる球団は1/3程度。)言うまでもありませんが,Bingは野球を愛していた人達のことすらも愛しており,時には試合中にも関わらず観客席に選手を配置してサイン会を行うなど,ファンサービスの観点からみても先進的であったといえます。

時には過激すぎるパフォーマンスによって他球団からNWLの代表にクレームが入ったそうですが,当時の代表はマーベリックスの大げさなパフォーマンスを楽しんでおり,制限を命ずることは一切しなかったという逸話もあります。

そして決戦のプレーオフ。会場にはマーベリックスの優勝を見届けようと15,000人近くの観衆が押し寄せます。相手はシアトル・マリナーズの傘下球団であった”ベリンハム・マリナーズ”。プレーオフになると上部組織からあえて有望選手を降格させてくる「MLBの傘下球団」相手に楽な戦いはできないと誰もが感じていました。予想どおり序盤から劣勢を強いられ4点を献上。マーベリックスもなかなかチャンスを作れずにいましたが,最終回には2点差で1死1・3塁の好機。しかし奮闘むなしくもゲッツーで試合終了。またしても優勝を手にすることはできませんでした。

⑤突然の解散と,Bingの意地

選手やファン,そしてBingが『来年こそは』と燃える中,非情な宣告が成されます。3A組織のPCLが再び地区編成を進めるべく,翌1978年からポートランドに球団を再移転させることとなったのです。となると,シビック スタジアムを使用しているマーベリックスは必然的に追い出されることとなり,Bingや住民は猛反発。これに対してPCLは26,000ドル(当時のレートで450万円ほど)を支払うことで幕引きを図ろうとします

ここでBingは「2と6の間に0が一つ足りない」として約8倍の206,000ドルを要求し,法廷で争うこととなります。当時,野球において独占禁止法は無視されていた時代だけに,Bingの要求は撥ね除けられるものと見られていました。しかしBingと弁護士は,ポートランドにおいてマーベリックスがどれほど愛されているかを論理立てて説明。ビーバーズの移転直前には右肩下がりとなっていた観客動員数を増幅させた功績などをオレゴン州の判事へ丁寧に答弁しました。
そして判決は,「PCLに206,000ドルの支払を命ずる」といったBing側を支持するものであり,大勝利を収めることとなりました。

球団は消滅したものの,「愛すべき野球バカたち」の功績は十分に認められ,MLBの手垢がびっしりついたマイナー組織達に一矢報いる形で幕を下ろしました。

⑥Bingが残した唯一無二のレガシー

その後Bingは,Elvis Presleyと手を組んでシカゴ・ホワイトソックスを買収しポートランドに移転する案を真剣に検討していたとは言われていましたがPresleyの急死によって破談。新たな球団を創設することはなく,2003年にはBingが逝去。それでも孫のMatt Francoが大成していくまでサポートを欠かさなかったと言われています。例のGehrigのバットなどは遺族で相談し競売にかけられました。
そんなBingの残したレガシーというのは,個人的に唯一無二かなと思っています。
まずファームシステム全盛の時代にNWLに参入し,独立球団をぶち上げた功績は言うまでもありません。そしてその選手らを全員トライアウトで拾い上げたことも秀逸。

一番たまげたのは,この時代においても女性や日系人をGMに登用するといったマイノリティーにとらわれない視野の広さ。ボール・ガールやボール・ドッグの採用も行うなど,21世紀にようやくMLBやMiLBで実現したような事案を真っ先に行っています。野球好きでありながら,先見の明や勝負所を適格に捉えた手腕は筆舌に尽くし難いと感じます。

そしてポートランドでは今でも少年野球チームや草野球チームがマーベリックスの名を冠しているそうです。これはBingにとって一番嬉しいことなんじゃないでしょうかね。こういった影響力の観点からみても個人的には「史上最高のマイナー球団」であったと思います。

⑦最後に

なんでこのnoteを書いたかと言うと,Netflixにてバタード・バスタード・ベースボールというドキュメンタリーを鑑賞したから。内容もほぼ被っていますが,当時の記録も見返しながらnoteに残したいという思いが強くありました。
正直この文章を読み返してもマーベリックスの魅力は全然伝わらないと感じています。それほどまでにドキュメンタリーが面白い内容になっていました。もし興味を持った方は是非本編をご鑑賞ください。

レッツゴー・マーベリックス!!

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