『メメント』、『インターステラー』、『TENET』--クリストファー・ノーランの運命論

夕方5時のチャイムが
今日はなんだか胸に響いて
「運命」なんて
便利なものでぼんやりさせて
――フジファブリック「若者のすべて」

自由意思は本当に存在しているのだろうか。物理法則を信じ、人間の体や脳も物理法則に従っていて、意識も意思決定も脳内現象の産物だと信じるなら、私が自由に選択を行っているというのは幻想ということになる。しかし、「1から10までのあいだで好きな数字を選んで」といわれたら、脅迫や強制されるような状況でなければ、私は"自由に"数字を選択できると感じるし、すべてのことがあらかじめ決定されているとはどうやっても思えない。と同時に、選択について"不自由"を感じることも多くあるのではないか。健康のために運動すべきなのにできなかったり、食べるべきじゃないのに深夜に甘いものを食べてしまったり。それを無意識や欲求のせいにしているけど、われわれは意外に、日常的にも自由意思の存在を疑ってるんじゃないだろうか。

『TENET』の登場人物たちは未来からのメッセージを受け取り過去に移動するが、『ターミネーター』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のように過去の出来事を改変して未来を変えたりはしない。"What's happened's happened"--起こったことは変えられない。そのことについて主人公たちは「これをどう理解したらいい? 運命か?」「現実(リアリティ)さ」というような会話を交わす。自由意思の存在しない、強い決定論の世界だ。

『メメント』にはこんなシーンがある。短期記憶障害の男がテストを受けている。男が金属製の積み木のようなものを持ち上げようとすると電流が流れ、男はショックを受けて怒りだす。おそらく男は何度も電流ショックを受けているのに、短期記憶を保持できないため、毎回繰り返し電流の流れる積み木を持ち上げてしまう。同じ初期条件であれば同じ物理現象が起こる。人間の脳もリセットされればそのたびに同じ選択をするだろう。決定論の思考実験のようだ。『メメント』の主人公は記憶を失い犯罪行為を何度も繰り返すが、映画内で裁かれ罰せられることはない。自由意思がなければ道徳的責任もない。

『インターステラー』の主人公は破滅しつつあった人類を救うことになるが、それは未来の自分たちの助けがなければ不可能だった。『TENET』と同じ構造。自由意思のない救世主。

「自由と決定論」の問題は、自由が"脅かされる"か否か、という問題ではないし、ましてや、決定論が正しいか否か、という問題でもない。「自由と決定論」の問題のポイントは、「人間」、「行為」、「自由」、「物理法則」といった事柄に関するわれわれの基本的了解の織りなす体系、「世界像」のどこかに重大な思い違いがあるのではないか、という問いを提起することにある、と思うのである。
丹治信春「行為の自由と決定論」

ノーランの映画も同じような「世界像」への疑義を提起しているのではないか。その「世界像」とは、「人間」、「行為」、「自由」、「物理法則」に加え、主人公が間一髪のところで世界を救う映画の「世界像」であり、一歩間違えれば即死する危険を何度もかいくぐり、結局は世界を救う、ハリウッド製アクション映画というジャンルのお約束。人類が滅亡するかどうか、すべては偶然にかかっている。そこにリアリティを感じられるだろうか。『TENET』や『インターステラー』はそういう映画と同じように一人の主人公が世界と人類を救うことになるが、すべては必然のループに支えられている。すべてが起こるべくして起こる運命の物語だが同時に、人間の感情、親子の愛情、友情なども語られる。

映画とは決定論的世界そのものだ。ある映画を何度繰り返し観ても、その映画の結末が変わるようなことはない。それでもひとは映画を繰り返し観て、そのたびに主人公に感情移入し、はらはらし笑い泣く。ノーランは既存の映画=世界像に疑義を提起しつつ、ロマンティックな映画=世界像として作品を成立させる。『メメント』、『インターステラー』、『TENET』はノーラン独自の運命論なのだ。





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