見出し画像

彼ら彼女らはどこから?ー社会運動の参加者と社会

(22/9/11 一部書き直しました。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 色々なところに配慮がされてとても読みやすく、かつ、私にとっては再び考えるきっかけをもらえる本でした。

 私が自分の研究を振り返って書くとしたら、こんな流れでしょうか。


 2015年9月。大学生だった私は、バックパッカー的に訪れたコペンハーゲンで、日本の国会と大規模デモを目にしました。当時の安保反対運動が、現地のテレビニュースになっていたんですね。
 海外でも報道されるくらいの事なんだ、と驚くと同時に、私は違和感を覚えました。運動の参加者、特に、その中心にいた同年代の人たちは、誰で、なぜ頑張ってるのだろうか、と。たとえば、原発事故で避難しなければならなくなった人たちが東電や国に対して「どうしてくれるんだ」と訴えたのならば、すぐに理解できたのですが、当時の私には、(一見、差し迫った問題を抱えているでもなさそうな)大学生が、デモをする状況がよく呑み込めませんでした。

 自分の研究テーマがなかなか決まらなかった私は、その違和感をきっかけに、「まずは」と思って、運動に参加していた同年代の人たちにアポイントを取ってインタビューをしました。結局、学部生の時は、研究として問いも立たないまま、分析もせず、その書き起こしが私の卒論となってしまいました。

 その消化不良感から、ぬるりと大学院に進んだ私は、もう少し同じテーマと向き合うことにしました。そして、反対運動の中心的な立場にあった人たちにも話を聞いていくと、当初、私が覚えた違和感を少しづつ言語化する手掛かりを得ることになりました。

 デモを主催するに至った人たちを理解するうえでは、2011年の震災を抜きに語ることはできないようです。彼ら彼女らには、震災以降の日本社会を目の当たりにして、自分の在り方を問い直すストーリーがあったのです(決して、全員がそうだというわけではありません。あくまで私の違和感に対しての仮説の一つに過ぎません)。
 デモを始めた人たちの多くが、運動以前に被災地ボランティアをそれぞれに経験していました。そのことについて、主催者の一人は以下のように語りました。

「(震災ボランティアで出会った、被災地で暮らす)彼らは全員が全員じゃないけど、被災者にさせられていて、生活の拠点も奪われてしまって、当事者にならざるを得ない。自分たちの生活のことだから、誰かに何かを訴えなきゃいけない存在にさせられちゃってるけど、僕らはどうなんだと。ボランティアとしてその場に行って何かをしてあげているような気がするんだけど、僕ら自身の当事者性っていうのを、すごい照らし返される。」

(当時の運動主催者のひとり)

 
 社会運動の研究には、参加構造を問う視点と、参加者が現れる社会の意味を問う視点があります。このインタビューでの語りを聞いてから、私の違和感は、どちらかと言えば後者の視点に立つのだと感じるようになりました。

 それは、違和感を覚えた自分自身に矢印を向けてみれば、彼の語りのなかに、思い当たる経験があったからです。

 東北で震災のあったとき、私は高校生2年生でした。地震や原発事故が、私の生活に物理的な影響を与えたわけではありません。
 それでも、被災者「じゃない」自分は、何をする存在なのだろうと考えたことがありました。少なくとも、テレビでみんなが口にしていた「がんばろう○○」とか「被災地の方に勇気を与える」という言葉に、なんとなく抵抗を感じていて。でも、かといって、何をすべきかわからないまま。
 ふと周りを見渡すと、放射線、電力不足、自粛。「わからない」「先の見通せない」事態を前に、情報の隙間を埋めるような、願望やうわさやデマ。メディアのなかだけではなく、自分が日常的に関わる人たちのあいだでも、見ている(理想とする)社会像がこんなに違っていたんだ(=社会が割れている)と、高校生ながら、うすら寒く感じる場面が何度もあったのです。

 違和感は、いまだ問いになっていません。まだ、個人的な経験からくる、興味関心のレベルを越えません。でも、もし、本書に書かれるような面白い研究をしようと思ったら、他の社会や社会運動と、丁寧に比較しなくては、ずっと「問い」すら立たない。研究しないとしても、この出来事を通して、もう少し日本社会の姿や「今」を自分なりに見通せたら良いな、なんてずっと考えるのだと思います。

とべかえる

ーーーーーーーー
※ちなみに、見出し画像はコペンハーゲンの中央駅です。2015年当時、ヨーロッパ各地に難民が押し寄せていて、ここでは難民向けの物資が、駅の真ん中に山積みされていたのが印象的でした。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?