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人生は意味があるのかないのか

ディズニープラスで『ソウルフルワールド』を鑑賞した。

今更ながらである。ピクサー、ジャズ。この二つだけで観る価値があるし、私の大好きな『インサイド・ヘッド』のピート・ドクターが監督であるから。

今、アマゾンプラス、Netflix、ディズニープラスの3つに加入している。
配信志向の強いディズニー作品の『私ときどきレッサーパンダ』や『あの夏のルカ』などのピクサー作品、まだ観ていないディズニー作品が多くあり、まぁ、あんまり観すぎると脳みそがディズニファイされてしまうので、よくはないが、チマチマ観ていくとしよう。
そういえば、『二分の一の魔法』も観ていない。

Netflixは月額990円かかっており、到底元を取れている感じがしない。
最近は、ドラマの『The Days』と『サンクチュアリ/聖域』を通して観たくらいで、最早損しているのは明白である。

冷静に考えると、時間がないのである。時間が。
全て見る必要性など、本当には一切無い、のである。
然し、人間のさがか、新しい興味や刺激を毎日ドーピングのように注射されていると、より刺激が欲しくなるし、身体も疲弊していく。
永久に刺激を求めるごみ人間がここに完成する。

そもそも、大抵のもの、世の中に出される様々なものの99%の表現は芥、であり、その中の1%にこそ価値がある。
これは、蠱毒的なものであり、その多くの99%のお陰で1%が産まれる、とういうことも無きにしもあらずだが、ただ、おそらくはその99%のうちの数%が傑作の誕生にに関係しているだけであって、実際の大半は存在する意味すらないのである。

感情論、人間讃歌を謳うのであれば、このような考え方は許されない。何にでも意味はあるんだよ、となるだろうが、実際は無意味である。
この無意味性にこそ真の意味というか、答えが隠されているのだが、努力論、根性論が幅を利かせて、無意味なものは何一つない、となる。けれども、そもそも、この世の中は無意味であり、『ソウルフルワールド』においても、人生の意味、的な深遠な話題を扱っていたが、どこまでも人間至上主義に毒されていて、私はこの映画が良いとは思えなかった。
ディズニーなど、所詮そのレベルである。
ジャズである意味もそれほどないし、人生は夢を叶えるためにあるわけではなく、生きていることそのものに価値があることを見つめ直させる映画なわけだが、そういうものは所詮は感傷に過ぎない。生きていくために必要な自己防衛の感情に過ぎない。

然し、同時に同じような話で私は以前泣いた記憶があった……。そうだ、あれは確か、愛する『人間交差点』の『冬の蝉』である。

この話も、仕事人間で、仕事!仕事!となっていた男が子供の死産を通して人間性を取り戻す話である。
『ソウルフルワールド』も、『冬の蝉』も、どちらもこれから産まれてくる子供の話である。
前者は、これから産まれてくる世界において、『きらめき』がない者はどうすればいいのか、世界に恐怖を抱く魂であり、後者は、本当にはこの世での生を全うするはずだったのに消えてしまった命である。
私は、『冬の蝉』を読んだ時に、本当に泣けてしょうがなかった。

そして、このことを思い出すにつれて、私は自分への怒りが込み上げてきて、自分の頬を、自分でビンタした。手は滑り、爪で鼻先を少し抉る。

「馬鹿野郎!人生に意味がないとか何格好つけてんだ!あんまり甘えたことばっかり言ってねぇで、必死に生きろよ!」

私は、映画を観る時も、文学を読む時も、それから人が活躍している時も、斜に構えている。無意味だと。

まぁ、無意味だとは本心で思うが、然し、そのような自分を変えたいとは、常々思っているのだ。
そういう意味で言えば、美しくないかもしれないが、私にはまだ人間性が少しは残っているのかもしれないなぁ、ダサいダサい、くだらない人間性が……と、また斜に構えている、情けない私である。


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