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書店パトロール20 ファンタジー、ノスタルジー

忙しくて現実逃避をしている。ファンタジーに逃げ込む。ファンタジーとは?私にとってのファンタジーとはまさしく本屋であり、これこそが幻想世界なのであるからして、そこにダイヴするのは忙しくても吝かではない。

私は『あかね噺』の新刊を購入した。9巻である。すごいスピードで新刊が発売されている。まぁ、週刊誌の新人やデビュー作などは基本的に休載なしでガンガン描かされているので、2ヶ月に1冊出るのである。


私は常に、漫画というのは6巻〜15巻くらいが一番おもしろい説を挙げている。そして、20巻台はまぁまぁ面白いのだが、30巻台になってなお面白い漫画は稀である。

文学コーナーに行く。1冊、棚からひょろんとはみでた本が目に留まる。

オスカー・ワイルドの奇跡、じゃなかった、軌跡。パラパラと捲ると、中はカラーで、非常に濃厚なオスカー・ワイルドについての情報に溢れている。
うーん、オスカー・ワイルド、といえば、『サロメ』であり、ビアズレーを思い出すが、然し、それから『幸福な王子』だろうか。これはいい話だ。私は『幸福な王子』が好きだ。
これは、まぁ皆識っている童話であるが、基本的にはピカピカの宝石だらけの王子の彫像とその相棒の燕くんの話(燕くん、っていうのが意味深ダナ)なわけだが、まぁ、貧乏な人々に自らの宝石を与えようと、動けないから燕くんにお願いして代わりに運んでもらうわけだ。つまり、アンパンマン、的な話なわけである。まぁ自己犠牲だ。自己犠牲。でも、その自己犠牲の果には、誰に顧みられるわけでもなく、ボロボロになって、街の人には、うわ、この銅像、汚いな、処分処分と破壊されて、燕くんと共に死んでいくわけだ。哀しい話だが、神は見ているもので、この世界で最も尊いものを連れてきなさい、的なことをエンジェルたちに言って(天使と書くと可愛い子供感が出るが、エンジェルと書くとナース姿のお姉さんが出るのはどうしてだろうか)、王子の心臓と燕くんの亡骸とを持ってこさせて、彼らは天上で幸福に暮らすようになる、という話である。

私は、『幸福な王子』=K、つまりは『ブレードランナー2049』説を推しているものであり、王子はK、そしてjoiは燕なわけである。二人はまぁ、別に誰かの役に立つために何かをしているわけではないのだが、然し、彼らは誰よりも純粋であり、愛を求めて行動し、最終的にはKは最大の自己犠牲を払う。Kを見ていてくれる神様は作中には登場しない。彼は最終的には一人で誰からも顧みられることもなく死ぬわけだが、それこそが、最大の崇高なのである。
然し、観客は、私は見ているわけで、「Kよ、私は見ているぞ。あんた最高にいいやつだ。あんたこそ、この世界で最も尊いものだ。」と感涙に咽び泣くわけである。ああ、やはり『ブレードランナー2049』は最高の映画であり、これを超える映画は存在しない。前作ですら、これのために前菜でしかない。まぁ、私にとり、だが。
それから、私は昔、noteに『ブレードランナー2049』=『よだかの星』説を挙げており、暇な人は見ていただきたい。

さて、オスカー・ワイルド。オスカー・ワイルドといえば、皆名前を聞いたことはあるが、作品は読んだことのない作家の筆頭であり、そして、戯曲の『サロメ』も皆名前を聞いたことはあるが、読んだことはない作品の筆頭である。
無論、私もである。なので、そっと棚に本を戻す。
そして、その横らへんに置かれていた、町田康の『入門 山頭火』。

どうやら、俳人である種田山頭火に関して町田康が解読する、そのような本のようだが、私は、残念ながら2,200円という値段は、あかね噺で528円を放出する私にはとてもじゃないが手を出せる額ではない。
何よりもハードカバーの本であり、私はハードカバーの本が嫌いなのだ。あの、汚れたら取り返しつかなそうな、本全体の不揃い感が堪らなく嫌いであり、本はやっぱり、カバーと本体がフィットして柔らかい感じのやつが好きだ。

それから新刊コーナーに移動し、ちくま文庫の『孤独まんが』が目に入る。孤独な漫画。これ、絶対つげ義春の漫画も入ってそうだよな、と思って開くと兄貴だけじゃなくて弟のつげ忠男も入っていたよ、やっぱりね。そんな感じの漫画で編まれたアンソロジーである。少し欲しいなと思いつつも、880円という高額に恐れをなして棚に戻す。

孤独、そう、『ブレードランナー2049』も孤独の映画である。主人公のKは友達もいなければ、恋人はAI(しかも全員にいい顔をするからね)、上司にイビられて、周りからは差別されるという、ウルトラK、いや、ウルトラCの苦しみの只中にいる男であり、まぁ、孤独、というのは重要な要素である。
人間は誰しもが孤独である。孤独だから愛があるのであって、孤独がなければ愛は存在しないのだ。なんでも正反対のものがあるから存在が輝く。
人間の孤独は絶対に、何をしようが晴れることはない。どのような人間でも孤独には勝てない。孤独は世界で一番恐ろしく、美しく、そして耐えることのない生そのものなのだ。

等と独り言を供述していると、美しい本が目に留まる。

私は標本が好きだ。標本は郷愁だからだ。生命よりも死体にこそ詩を感じる。この本をパラパラと捲りながら、私は映画の『ラ・ジュテ』を思い出した。テリー・ギリアム監督の『12モンキーズ』の元ネタの映画だが、モノクロームの『ラ・ジュテ』は詩的な映画だ。私は、詩的な映画が好きだ。物語は必要ない。今年の新作で詩的な映画は『君たちはどう生きるか』、あれは詩の快楽があった。物語が表現に奉仕していた。表現こそが『君たちはどう生きるか』の焦点だった。
『ラ・ジュテ』はタイムスリップものだが、これはアマゾンプライムで無料で観られるので観ていない人はまぁ観てほしいが、30分くらいなので、すぐに観られる。


途中に博物館デートで剥製の海を行くところがあるが、生と死の入り混じった上品で詩的なシーンだ。このシーンは何度でも観てしまうほど完成している。まぁ、ゲームの『街』を彷彿とさせる、あの静止画の連続で構成された画作りに痺れてしまう(押井守も死ぬほど影響されたと言っていた)。

まぁ、そんなこんなで、私は528円だけを書店で使用した。たまに、10000円で本を買う、とか、そういう企画があって、私もそういうこともやってみたいものだが、私は必要に迫られた場合や心からの欲求がない場合、いくら10000円あっても、1冊も買う気にならない。結局、本というのは出会い、であり、恋心、なのであって、欲しくもない本など、読むのすら苦痛だからだ。

然し、本というのは、ある種これも剥製かもしれないなと思う。本は生きていない。けれども、かつて生きていた人々の思想がページを開く度に香るわけで、これもまた郷愁である。だから、私は本屋が好きなのである。ここはファンタジーが住む場所だからだ(まだ死んでいない人の本だらけだけど!)


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