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インプットとアウトプット

私は、意識高い人は嫌いである。

それは、私が意識が低いからであるが、意識の高い人はインプットしなきゃ!アウトプットしなきゃ!とかそういうことをよく書いている。頑張らないと!上昇志向、出世、金儲け、いい暮らし、名声!という、嫌な言葉オンパレードである。
然し、そのいつかギラギラした日的なギラギラ感は大切なのかもしれない。

文章においてもインプットとアウトプットは大切だとは思うので、私なりの意識高い文章を書こうと思う!

まずはインプットだが、これは自分の目指す地平を探すところから始めなければならない。例えば、エンターテイメントなのか、エッセイなのか、短歌なのか、俳句なのか、詩なのか、小説なのか、都々逸なのか、川柳なのか、将又脚本なのか、それとも戯曲なのか…。

文章表現は無数にあり、その中で自分が作りたいものを的確に理解し、自分の資質にあった表現者を選び出し、それらを紐解いていかなければならない。
無論、何でも勉強であるので、雑食は大切だが、私は現代エンターテイメント小説には興味がないため、その辺りの作家を読むのはほぼ時間の無駄だと解釈しているため、基本的には読まない。
エンターテイメントは慰安であるので、基本的にはお客さんを楽しまさせて、気持ちよくさせる必要性がある。それは、私の求める作品とは異なるので、必要がないという話である。
私に限って言えば、文学賞を受賞した作品、というのも基本的には読まない。文学賞を受賞した、という情報は頭に入れるが、作品は読まない。何故なら、文学賞を受賞したことと、私の読みたい作品(思想)を書いているかは一切関連性がないため、来歴を読んでそれで道が交わることがなければ終わりである。
文学賞、というのはあくまでも出版社側の都合であり、売り手側の都合であり、作家側の都合であるので、読者が有難がる必要性はない。文学賞=話題性の獲得であり、それは飯の種、でしかない。

さて、人間というのは80年くらいで死ぬので、創作できる時間は長くても60年くらいであり、健康問題を考慮すると、まぁ40年強といったところだろうか。例えば大甘に50年、と仮定して、閏年を加えても、12日あまり、合計18262日しかない。これは、24時間で考えると、大体438288時間でああるが、そのうちの1/3を睡眠と仮定すると、146096時間は寝ている計算になるため、292192時間が起きている時間になる。然し、仕事や雑事でその半2/3は消化されることが予想されるため、恐らく、頑張っても70000〜80000時間くらいが取れる時間だろうか。今、40歳とかだと、その半分の30000万とか40000時間は消化されているため、あと30000〜40000時間である。そのため、糞みたいな小説で3時間だとか消化すると、まさに『エンペラータイム』で無駄に時間を消化してしまったクラピカ的な焦燥に襲われること必至である(クラピカも意識が高いため、馬鹿な能力を選定してしまっている……)。

1秒で寿命1時間縮むとか、どんだけ〜って感じ。


だから、なるたけ自分の好きなものを読みつつ、そして、ゆっくりと創作以外の時間を充実させることが肝要である。
人間は全ての情報を手に入れることはできない。それは誰もがそうだし、世界は日々進化もしているし、いつ戦中に突入するかも不明のため、なるべく本など読まずに風景を楽しみ、人と触れ合うことが重要である。

時間がないから速読!という方もいるが、芸術と速読は相反していることに気付くべきである。然し。気付かないからそのような考えに及ぶのであろうか。

文章は、書けば書くほど上達する。これは事実であり、嘘でもある
基本的に才能のある人は書くほどに上手くなるが、才能のない人間は書いても小綺麗になるだけで、人を惹きつける文章にならない。
つまり、最初から才能、という訳だが、才能とはいうのは究極死ぬまでわからないものなので、いつ開花するかわからない。早いか遅いか、咲くや咲かざるや、である。

アウトプット、というのは、インプットしたものをどう出力するか、その差異で作品は変わるが、究極的に、人は作品の文章の巧拙で感嘆するわけではなく、世界を、人生を、そして自分と他者との関係性をどう捉え、どう表現したかに感動を覚える。
なので、アウトプット、というのは回数を繰り返すことではなく、どれだけ咀嚼して、どこまで悩んだのか、苦悩したのかが重要であって、ただ書き殴ればいいわけではない。
そして、苦悩とは読書とは異なり、実人生においてこそ実る果実であって、それを自分の中でどう育てていくか、どのように食べるのか、ということを考えていくのが真のアウトプットであり、そのためには究極書く必要性はなく、書いたとしても、その果実が実るまでの日々の耕しでなくてはならない。
汎ゆる芸術は、作られる前に完成を見る。その完成したものは、日々の思索の中から立ち現れる。書く前、というのが大事であって、インプットとアウトプットは同義語である。
作られるまでの過程、どのように生活し、どう思索し、そしてそれをまとめたとき、人は識らずにアウトプットを終えているのである。
そして、アウトプットとは、自分を曝け出すことであるから、意識の高い人間には、本来的には出来ないことなのである。
それは、全てが世俗に繋がれているからであって、世俗を超えることこそが、究極のアウトプットなのである。




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