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詩で暴れる。詩を剪定する。 『パスタで巻いた靴』

最近購入した詩集に、素潜り旬氏の『パスタで巻いた靴』というものがある。

私が寄稿させて頂いている、noterのゴタンダクニオさんが配信しているメルマガ『蟄居通信』に以前、素潜り旬氏が寄稿されていた。名前の由来は不明だ。詩人である。

港の人という出版社から刊行されている単行本で、いくつかの詩篇が載っている。
装丁がいい。鉛筆で書かれた(鉛筆なのか?)線が絵になる。ネオ・ダダ的な、篠原有司男的な感覚である。

はっきり言って、とても好きである。強烈に惹かれるセンテンスをチョイスして、言語遊びの坩堝るつぼへと連れて行く。
ふざけていることに耽る快楽がある。これは詩人が持って生まれた感覚だろうか。
詩人にはそれぞれの文学論、詩論があると思うのだが、私は真面目な詩はあまり好きではない。
素潜り旬氏の文章はふざけている。
いや、御本人はふざけていないかもしれないが、いずれにせよ魅力的だ。
詩を書くとき、私の場合は小綺麗に整えてしまおうとする。そもそも、自分の書いているものが詩だとも思えない。詩は難しい。私にはそのスキルがない。

『パスタで巻いた靴』はジョージアの詩人であるマヤコフスキーの『ズボンをはいた雲』をモデルにしているのだと思う。

いや、識らないが、御本人がXなどで呟いている中に、マヤコフスキーの名前が出るので、そうなのだと思う。
私はマヤコフスキーに関してはよく識らないし、明るくない。彼の人となりは少しだけ識っているけれども、それが非常にこの詩人に重なるのだ。

パスタで巻いた靴、という言葉。
意味よりも五感に響く。その語感が美味しい。

一節、引用させて頂こう。私が強烈の好きなセンテンスだ。

詩が書けた夜は
猫を思い出そう
メランコリックで
熱病にうなされた
僕の鏡のような猫を

素潜り旬 『パスタで巻いた靴』より 『身勝手な猫』


メランコリックというのは憂鬱、或いはうつ病のことだが、そういえば、私の好きな映画に、ラース・フォン・トリアーの『メランコリア』という映画があって、まぁ、有名な映画だが、これにはMJことキルステン・ダンストが主演していて、彼女が外で月光浴的なことをしているシーンで、いきなり素っ裸で巨乳をバーン!と開けっぴろげに出てくる。度肝を抜かれたものである。

ラース・フォン・トリアーは映像が美しいのだよ。キング♪ダム♫

『メランコリア』はうつ病の主人公が地球に隕石が落ちてくることにより、
逆に段々と元気になる終末映画である。最終的には幸福なカタストロフに帰結する。みんなでサークルになって、隕石直撃を待つのだ。
そういえば、『Don't Look Up』も隕石直撃してたな。やだー。『グリーンランド-地球最後の2日間-』も。隕石映画はいいね。実際にはめちゃくちゃ嫌だけどね。

メランコリー、メランコリックなどの言葉は、何やら意味合いから離れて美しい響きがあって、こういう言葉をチョイス出来るかどうかは感覚の問題である気がする。美しいという言葉を使うことなく、美しさを表現することは文学において史上の命題である。
詩ならば一層に。
美辞麗句で語った文章表現は逆説的に美しさの損壊に繋がる。
宝飾品で着飾った人間が、身に付ければ身に付けるほどに醜くなるのとなるのと同じこと。ダイヤモンドは一粒で構わない。それ以上に、宝石すら纏わない素肌だって。
その素肌の言葉でまとめられている、いや、まとめられていないのか?

それだからか、『FINAL FANTASYⅦ』のオリジナル・サウンドトラックのブックレットでコンポーザーの植松伸夫が語っていた、「各パートが好き放題に作り、どんどん伸びていった」かのように、エネルギーに満ちている。
然し、それでも、常にその世界観は一つの法則を持って存在している。


どこまでを剪定するのか、或いは剪定しないのか。素潜り旬の巻く種は野放図に伸び放題、然し、彼の剪定法は毒草に独創を重ねて一つの庭を形成している。

間違いなく旬な詩人であり、センスというものを感じさせられた次第。
初めにネオ・ダダと書いた。篠原有司男的だと。つまりは言葉が弾けているのだ。クレバーさを隣に置いておいて。

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