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私の川端康成カレンダー 一月〜六月

私は川端康成の小説は8割くらいは読んだ。

全集で読んでいるので、長編はあらかた読んだ。
掌編、短歌、評論は目を通せていないものも多かった。日記もそうだ。然し、日記は面白い。日記の中で、眼を引いた言葉がこちら。

ああ、『罪と罰』がたまらない。

ここで、ドストエフスキーへの信奉を露にし、かつ、小説家をきよい仕事だと、川端は書いている。

さて、川端作品の中で、これを読んでおけばそれなりのやすなり、即ちSORENARIになる作品を紹介させて頂きたいと思う。
YASUNARIに心酔し、人生を捧げている方は大勢いるので、まぁ、康成初級編といった感じだ。

折角なので、カレンダーにしてみた。各作品ごと、全てではないが、作品の季節とマッチしたものを選んでいる。
小説というのは、読んだ季節ももろに影響されてしまうものだから、折角ならば相応しい時期に読むのがいいかもしれない。


一月 睦月

虹いくたび

腹違いの母親をそれぞれに持つ、三姉妹の話である。
京都に滋賀、琵琶湖を舞台にしている。
この三姉妹のうちの一人、百子さんが強烈なインパクトを放つ。
百子さんは、戦争で恋人を喪ってしまったため、自暴自棄になっており、年下の美少年たちと愛を交わす日々を送っている。戦死した彼女の恋人は、デスマスクならぬ、デスおっぱいお椀を作ろうとして、若き日の百子お姉さまに、「ちべたい……。」とか言わせながら型を取らせる変態である。

そして、この主人公の親父も親父で、何の責任も感じていない。いや、少しは感じているのだが、性欲の赴くままの系の糞親父ではある。被害者的なのは若い美少年で、彼の心は傷ついて、とんでもないことになってしまう。いつでも傷つくのは若者と女性である。
この小説はやたら文章がきれいで、大変読みやすく美しく、川端魔界成分少なめなのでおすすめである。
寒い季節の琵琶湖に昇る虹が印象的である。
また、今作には桂離宮に関しての描写が多く、桂離宮に是非行きたいなぁとなること、請け合いである。


二月 如月 ☆(作中時間とマッチ)

たんぽぽ

川端康成の最後の長編未完の作品である。今は、講談社文芸文庫で読める。
人体欠視症という、愛する人間の身体が見えなくなっていく奇病に犯された女性稲子を中心にお話が進む。
彼女の婚約者と稲子の母、基本的にはこの二人のダイアローグ、つまりは会話劇で進んでいく。会話の量がべらぼうに多く、このお二方、だんだんと妖しい方向に進んでいく。
幻想的な小説で、掴みどころのない作品だ。舞台もどこなのかよくわからなっていく。まぁ、この作品は○○○○病院というとんでもない名称が普通に出てくるために、なかなかハードコアな時代を感じさせる。

物語は稲子の回想なども交えながら進んでいく。非常に不気味でありながらも美しい詩的な作品である。
今作には西山老人という、白内障のじーさんが出てくる。稲子の入院する精神病院の患者だが、彼は、『仏界入易、魔界入難』という文字を書く。一休禅師の言葉である。
YASUNARIキーワードの最重要がこれだが、この思想を康成はやたら作品に取り入れている。
このワードは最初は、『舞姫』に登場する。主人公の娘が、家に掛けられているこの軸を見て、どういう意味なのん?と親父に尋ねるのである。この親父も虚無的なヤツで、夫婦関係は破綻していた。
この頃(『舞姫』)はニジンスキーにも興味があったようで、ニジンスキーもまた、精神が破綻していた。川端は精神の破綻が大好きなのである。シンパシーを感じているのかもしれない。
書いていて思ったが、この小説はどこか『サイレントヒル』のような空気感がある。
川端版サイレントヒルである。


三月 弥生

浅草紅団

とにかく実験的な色合いの濃い話である。この頃のYASUNARIは浅草野郎だった。
浅草にはカジノ・フォーリーという会いに行けるアイドル的なものがあって、康成はこの劇団に夢中だった。浅草時代の康成は完全なオタクだとしか思えないのだが、生来、骨董品収集など大好きな男である。
彼はオタクなのである。もう少し、日本の出版界はヲタであるバタを売り出すべきなのである。『あの頃』的な感じで、松坂桃李さんが演じていたヲタ的な装丁で浅草紅団を出すべきだ。
今作は当時の浅草の雑多なイメージを雑多な語彙を散りばめて作り上げた
万華鏡写輪眼のような作品であり、私も読んでいて意味不明な箇所が多々あった。いや、嘘で、相当の箇所が意味不明だった。然し、この時代、つまりは1920年代〜30年代的なモダンな匂い、シュレレアリスムの香り漂う時代のエキスを作品にぶち撒けて成立させた、ある種新感覚派としての重要な記念碑作品、その代表的なものと言えるのではあるまいか。


四月 卯月

雨傘/掌の小説

短編集掌の小説の一遍である。今作は、僅か3ページほどなので、寝る前に読めるし、歯磨きしながらでも読める。程よい分量である。
まず、『掌の小説』は100作品くらいあるが、内半分くらいは難解であり、一読しただけでは余韻は味わえても意味不明な作品ばかりである。私は『夏の靴』なんて、ごめん、何回読んでも良さがわからないし、意味もわからない。
『有難う』など映画化もされているが、この作品は三島が『風景描写が素晴らしい!』と言っていたが、その描写とは、「今年は柿の豊年で、山の秋が美しい」というものである。いや、三島の言いたいことはわかるのだが、
そこまで素晴らしくなくね?というのが私の感想である。三島は、若干川端に関しては異常に持ち上げる太鼓持ちであることに疑いようはない。
さて、今作は少年少女がお別れの前に記念の写真を写真館で撮る、ただそれだけの話なのだが、非常に思春期頃の感情の流れを掬い取り丁寧に書いていて、美しい小品である。
今作は、川端の婚約者であった伊藤初代との写真が想起されるものになっていて、島根県出身の三明永無とのスリーショット写真は、この小説の下敷きになっているように思われる。この伊藤初代との一連のちよものに関しては、基本的に甘酸っぱい童貞の精神の機微が微妙に捉えられていて、見事な青春を描いている。

五月 皐月 ☆ (作中時間とマッチ)

十六歳の日記

これは康成の処女作(だと本人が供述している)作品であり、彼が20代の時に出てきた昔の日記を発表したものである。今作にはよく引き合いに出される、『尿瓶の底に清水の音』という、祖父の介護をしているヤングケアラー時代の康成の文豪としての天禀的資質を垣間見せる表現が登場する。
汚いものを聖なるもの、美しいものへと転化させる技術は小説家において重要な能力であり、如何に物事を、世界を観るかということに繋がるので、小説家志望の方には勉強になるだろう。
康成は幼い頃に、父母、それから暫くして姉も亡くして、この祖父を亡くして遂に天涯孤独の身となる。
康成は結婚したが、終ぞ子供にも恵まれなかった。妻は死産している。彼の根底には、この幼い頃からの孤独というものが燻っている。それは、全作品を見ていくと、逃れられない呪縛となって、全てに流れている。

六月 水無月 ☆(作中時間とマッチ)

みづうみ。

川端中期の作品で、魔界の作家であることの要素が色濃く放出された作品である。
変態元教師桃井銀平の果のないストーカー物語であり、それを淡い桃色の靄で包んだような作品。この作品はある種、『眠れる美女』、『たんぽぽ』、『片腕』の完全なる同胞的な作品であり、YASUNARIの歪んだ面が一身に出ている。
何よりも、今作は可愛い子揃いなのである。複数のかわいい女の子たちが、変態銀平にマークされる、そういう話だと思って頂いて差し支えない。
ラスト、蛍籠のシーンが真に美しいので、蛍の季節、六月とした。




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