掌の小説

叔母の猫

こたつで寝ていると、棒のようなもので、急につつかれて起こされた。

デッキブラシの端だった。

みると、中年の女がそこに立っていた。
わたしの伯母だった。

——なにすんだ、てめえ。

起き上がると、わたしは伯母に食ってかかった。
伯母はおどろいて、何かもごもごと言い訳を口にしたようだが、不明瞭で言葉が聴き取れないし、わたしにも聴き取る気はない。

——くそばばあ。きちんとあやまりやがれ。

伯母

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夜のマンションの一室

夜、誰かのマンションの一室に、ひとりでいる。

部屋の灯りは消えているが、ベランダのガラス戸が全開しており、外光が入ってうっすらと室内を照らしている。

部屋の左手の壁には本棚、窓際には机と椅子がある。

机には電気スタンドがあるが、灯りは消えている。
何かのテキストブックのページが開かれたまま卓上に置かれている。
その横には筆記用具とノートがあり、奧には円い時計。
時計の針は、午後八時すぎを差し

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やす宿のオッサン

人なつっこいオッサンだった。渥美清に似ている。

どの部屋からやってきたのか。もうすでに酒が入っているようだ。
ネクタイはやや曲がって、ワイシャツも着古したようすである。
しかし薄汚いというよりも、本人が愉しくてしかたないという雰囲気があり、好感があった。

「もうし、シャチョウ。ぜひともワタシメのサカズキを、受けてくださいな」

とお膳の前ににじり寄り、お猪口を差し出すのである。

こいつ上手い

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深淵

ぼくは森の中に立っていた。

日は中天にあったが、曇っている。
繁った木々にさえぎられ、緑陰が涼しい。

足元には草木や灌木が生いしげっているが、かろうじて細い山道をみてとれる。
草を分けて歩き、進んでゆく。

耳に入るのは、晩夏のセミの鳴き声。
そして自分の足が草を踏み分ける音ばかりである。
それが、かえってしじまを感じさせた。

とつぜん、目の前に巨大な縦穴があった。
縁まで、草が生いしげって

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古い雑誌とヴァイオリン

(しまった。)

電車のドアが閉まったところで、気がついた。

ひと駅乗り過ごしてしまった。
ぼくは次の駅までゆき、そのまま折り返しの電車に乗りなおして戻ることにした。

ここは、いままでは、単なる通過点だった。
訪れるのは、ずいぶん久しぶりである。
その時の記憶がまだ残っており、乗り過ごしてしまったようである。

昔は通学のためによく通い、なじんだ路線であった。
当時、この駅はなかった。この場所

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七匹

古い魚屋の、店の裏手であった。

勝手口に木箱が打ち捨てられており、その中には生後三ヶ月ほどの白混じりの黒毛の子猫が何匹も入っている。
産み棄てられているようだ。母猫はいない。
小さな鳴き声を上げて箱の中でうごめいている。

晴れた初夏の昼下がりになろうとしていた。朝は空気がひんやりしていたが、この時刻になり、日なたの路面は熱されて、少し風が吹くと熱気が顔に当たった。

さいわいながら木箱は建物の

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夜警

まさかこんな場所に泊まることになるとは、予想もできなかった。

僕たちは三人で暗い校庭に立っていた。
あとの二人は同期の女性である。
たまたま帰りそびれてしまい、同行することになったのだ。

大学の校舎は月明かりに照らされ、山を背景に暗くそびえ立っていた。
深夜の校舎は、ひと気もなく静まりかえっている。
窓の向こう、誰もいない廊下は、非常灯の青い明かりでうすく照らされていた。

夜更け。深夜に近い

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残り香

目をさますと自室だった。

二階のぼくの部屋は、いつものように雑然としている。
ぼくはその中心にあるベッドの上に横になっていた。

ベッドを囲む本棚には本があふれ、机の横には楽器が立てかけてある。
床には書籍の入った段ボールが積まれ、その上には、古いパンフレットやカタログなどがさらにおりかさなって、雑然としている。

階下で声がした。玄関口のほうである。
お気を付けて、おかまいもできませんで、と母

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軌道エレベータに乗る

奇妙な光景だった。

細くて黒い線のようなものが、接地面から青空に向かって垂直に延びていた。
単層ナノカーボンのファイバーペーパー、エレベータの軌条(レール)である。

よく見ると細い帯のようだが、奇妙な感じを受ける。
全く光を反射しないのだ。
それに、周囲にかなりの強風が吹いているにもかかわらず、黒い帯は一寸とも動かない。
まるで垂直の黒い線が風景を分割しているかのようだ。

思わずぼくは黒い帯

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夜逃げ

「あっ、ミタくん」

声をかけると、彼は反射的に振り向いた。
その刹那の表情は硬かった。しかし声の主がわたしであることが分かると、すぐにその緊張は緩んだ。

「どうしたの、こんなところで」

そろそろ深夜を回ろうとしている時刻だったが、駅の改札口は時ならず混み合っている。終列車を逃したくないのであろう、多くの人たちが駆け足でホームに集まっている。

ミタくんはその人たちの流れの中、券売機でチケット

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