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ひとのこ

新井英樹の『ひとのこ』を読む。

ひとのこ、とは人の子であり、つまりはイエズス・キリストのことである。
今作は、約900ページにも及ぶ、作者自身の弁によれば、俺の聖書として描かれている。
通常の単行本にしてみれば、5冊分の大著である。通常版の1巻発売後、暫く音沙汰がなく、その後昨年上下巻で加筆80ページを含めてリイド社から刊行された。

物語は、世界を牛耳るほどの影響力・財力を持つ世界一の大富豪ボスチャイルド家のボス、ジェイムズと、待ち行く人々のスマホを手から叩き落としたりと奇行を繰り返す天戸童あまとわらしを軸として進む。
ジェイムズは傲慢であり、ウルトラに金持ち(まぁ、こち亀における中川レベルのようなものだろう、なんとなく)なわけだが、彼の額に謎の十字架が現れるとき、凄まじい痛みが彼を襲う。その痛みを鎮めるのは、天戸童がその舌で彼の額を舐めてやるときだけである。
天戸童は、作中で様々な奇蹟を起こし、それは聖書におけるエピソードを踏襲しながら進んでいき、彼がキリストの転生者であることを予感させていく。彼は人の心を読めるため、出会う人々の悩みを独自の言葉で言い当てて、彼ら彼女らの心を揺らしていく。

天戸童は自傷癖があり、自身の身体を自ら傷つけていき、そして、それは人類の罪をその身体に刻んでいくようだが、彼は、どちらかというと緩い存在である。人生に意味や勝敗、目的がある、という考え方を徹底的に馬鹿にして、どちらでもいい、というのが彼のよく言う言葉である(つまり、別に勝敗や目的、意味を見出しても無論構わない、ということである)。

元々、新井英樹の漫画というのは速射砲マシンガンと言うべき言葉のオンパレードであり、その銃弾の嵐に巻き込まれたら、なかなか言葉の意味を解釈するまでに、時間がかかる。今作はその傾向が特に強く、下巻での天戸童版『山上の垂訓』での乱れ打ちにはほとほと参った。ある種、『デスノート』よりも遥かに理解するのが難しいのである。『デスノート』は非常に論理的な文章だが、『ひとのこ』は思想的であるから、それは当然のことであり、そこに自身の考えとの齟齬もあるわけで、一筋縄ではいかない。『山上の垂訓』において、このようなシーンを描くことがどれほどに大変だろうか、まさに頭が下がる思いである。演出と思想を絡めて絵に落とし込む。新井英樹に漫画は往々にして映画的であるが、その傾向は今作でも顕著であり、このシーンは一つのCLIMAXに近い。

歴史上、富を得たものが貧しいものを救おうとしたことはない、と作中で語られている。今作は、ボスチャイルドというウルトラにお金持ちが、キリストの使徒になり、人々に施し(これは傲慢な考え方であるが)を与えたらどうなるかという思考実験でもあるのだという。
けれども、今作の天戸童も、後半のジェイムズも、共にそんなことはどうでもいいのだ、と言ってみせる。

後半、ジェイムズが語る、学生時代の友人アダムとの話がたまらなく良い。新井英樹の漫画は通常時はハチャメチャでテンションが高すぎるため、その落差だろうか、シリアスなシーンの感傷性の高さというものは破格である。

今作は、何よりもスマートフォンやSNSを始めとする、承認欲求を重要なものとして捉えている。世界は、SNSで小さくなり、その御蔭で今起きているウクライナ侵攻などの脅威、悲劇に関しては、有用に使われている。文明の利器として機能している。然し、平時の世界では、SNSはある種人心を肥大化させて、時には殺しにすらかかる程に諸刃の剣でもある。
その、承認欲求という悪魔に対して、どちらでもいい、という言葉、どうでもいい、という言葉は、一つの処方箋である。

新井英樹自身の体験が幾つも今作には落とし込まれていて、それは全て、実際に見た、されたことだそうである。それは直接の言葉や行動であり、作者本人を温めたものである。

ジーザス・クライストはスーパースターである。スーパースターとは、一般人よりも遥かに多くの誹謗中傷をSNSで受けている。
その極地がキリストであるのならば、彼は、本当に人類全体の中傷すらも引き受けて、その身を捧げているのかもしれない。
ボードレールの言う所、彼はただ一人、死の象徴である十字架を、人類救済の印へと変えてしまった人であるから。

新井英樹ファンならばやはり必読の漫画であり、彼の聖書として、是非とも読んでいただきたい作品です。


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