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神西清の『垂水』と谷崎潤一郎の『細雪』/大正昭和の貴族精神

神西清はロシア文学の翻訳者として識られている。
チェーホフの作品の戯曲の訳などで、三島由紀夫とも縁がある。

完全にリーマンだよね。堀辰雄と伊藤整と居酒屋で呑んでそうだよ。無論、会社帰りにね。会社近くの小さな立ち呑み屋で。

なので、三島由紀夫は神西清の小説も大変褒めているが、然し、三島由紀夫は文学に関しての様々を、読み過ぎではないかと思う。

神西清は小説作品も多数あり、青空文庫で読めるが、私は全部読んではいない。とにかく、文章があまりにも美しいために、屡々理解が追いつかない。

2008年に、小出版社の港の人から作品集が発売されている。


『垂水』は日本の貴族階級の人々の話ではあるが、やんごとなき人の生涯、その習性、血統と伝統とにまつわる物語であり、短編小説である。
1時間もあれば読めるので読んで頂きたいが、恐らく7割は脱落するだろう。


初出が1933年で、この話はそれより20年も前のことを書いているため、1913年くらい、大正時代の話だと思われる。つまり、『鬼滅の刃』の頃の話である。そのため、私はこういう貴族階級の夫人が登場すると、常に珠世にて脳内再生されているわけで、漫画のビジュアルというのはやはり強烈なインパクトのあるものだ。

大正時代の夫人的なキャラクターはいつもこの人になってしまうよ。

今作では五泉男爵夫人の李子と、五泉家に引き取られた遠縁の曾根至が朽ち果てた垂水の別荘にやってくるところから始まる。曾根至は生まれ落ちたときから厚母伯爵家の当主である喬彦の妹麻子との許嫁であり、李子は喬彦との結婚するのだが、この話は、なかなか複雑なのと、神西清の美文調も相まって、誤読を誘引するかのごとく読み解くのが難しい。短編ではあるが設定が多く複雑なので、人間関係の把握というのが大変に難しいのである。
けれども、昔の人々の家柄、家系図などは今作でも重要なファクターではあるのだが、異常に込み入っていて、少々理解に苦しむ場合がある。
主な人物である李子、喬彦、至の心情が夫々に描かれるが、それを客観的に説明するその文章に宿る語彙の意味深さは咀嚼するに足る、考え、味わう小説である。

これを考えると、逆にどメジャーであるタニジュンこと谷崎潤一郎の『細雪』は、同じくある程度のやんごとなき人の婚活日常系であるが、全然読みやすく、理解しやすい。谷崎潤一郎は文豪で、難しい印象を受けるが、実際はすごくわかりやすく書いていて、それを複雑性のある物語はない。まぁ、『聞書抄』とかは読んでいても頭が痛くなる時もあるが、『細雪』はそれに比べると、やはりどこまでも大衆に向けて開かれた作品であることがわかる。キャラクターも立っているではないか。あんまり出てこない鶴子、しっかりものの幸子、メンヘラというか気難しい雪子、モダンな活発屋な妙子と、漫画じゃん、的な割り振りであるが、これはまぁ、谷崎の奥さんの松子一族がモデルなので、どこまでも客観的な男である。
『細雪』は四季のイベントがあったり、ハプニングがあったりと、徹底したエンタメぶりを発揮している。疎開先でやることがなく延々と書いていたのである。書いている内容と時代とが完全に乖離している。
あまりにも長い、谷崎最長のオリジナル小説であるが、然し、スラスラと読めてしまい、かつ、あれ?あんまり重要なエピソード、そんなになくね?という、30巻以降の『BLEACH』の如し長尺連載である。

逆に、『垂水』は(比べるべき素材ではないかもしれぬが)、心理や感情などを文章の表現に巧みに滑り込ませており、私も、何回か目を通したが、まだよくわからない箇所がある。それは、私の読解力が低いからかもしれない。ちなみに、私は頭が悪いので、皆の評価が高い泉鏡花の小説は目が痛くなるので『高野聖』以外は読んでいない。

『垂水』は貴族精神に関してつらつらと書かれているが、小谷野敦が指摘したように、『細雪』は上級国民、又の名をセレブリティ、つまるところのVIPベリーインポータントパーソンの話であるため、本来は読者は感情移入すべきは、ほぼ感情が描かれることのない女中なのであり、『垂水』に関しては、読者は一切(いや、いるのかもしれないが)、出てこないのである。
今から1世紀前には、今以上に貴族精神に関してその価値観が共有されていた時代、貴族として生まれた人間の感情、関係性、その緊張感が、僅かなページ数にまとめられているが、然し、濃厚にすぎて、私は目眩を起こした(馳星周風)。


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