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幼少時代

谷崎潤一郎の最高傑作を考えるとき、『春琴抄』でも『細雪』でも『少将滋幹の母』でもなく、『幼少時代』だと思われる。
とはいえ、私は谷崎の作品を全て読んだわけではないから、私が読んだ作の中であるけれども。

『幼少時代』は随筆で、タイトル通り、谷崎の幼少時代の思い出をつらつらと描いているものである。
まぁ、タイトルはトルストイの『幼年時代』のパロディ的なものであろうか。

谷崎の生まれた日本橋蛎殻町界隈や人形町の思い出が描かれていて、摘み読みするのに適している。
この本は、大変に読み心地が良いのである。
それは、今作の挿絵を担当している鏑木清方の絵が淡いタッチだからか、思い出の中の出来事のようで、ぼやけて見えるのだが、それがいいのである。感覚としては、『おもひでぽろぽろ』の回想シーンに近いだろうか。あれも、ある種幼少時代といえるかもしれない。まぁ、もう小学生ではあるけれども。

懐かしさ、それがこの作品には溢れている。それが、この作品に非常に不思議な心地よさを与えている。
何故ならば、誰しもに幼少時代があるからであって、人の思い出話には、自身の思い出話に重なる共感覚的なものがある。それは、淡く、どこか自分も体験したかのような、似つかわしいような、そのようなかぐわしさがある。

昭和天皇実録という本がある。これは、昭和天皇が生まれてからの仔細が宮内庁によってまとめられたもので、本当に日々何をしたか、などの情報がつらつらと書かれていて、全19冊ある。

これも、1冊目が読んでみるととても美しいのだが、それは、昭和天皇の幼少時代を書いていて、美しい懐かしさに満ちているからだ。

その幼少時代には、例えば、

木曜日、皇太子、フランスより乳母車一台を賜る、

など、そのような記録がつらつらと書かれているのだが、大変に美しい出来事、少年の頃の特別な贈り物に喜んだ日のことなどが綴られていて、やんごとなき身分の方ではあるけれども、これはある種、共感覚的に思い出される人もいるのではないか。

この本はAmazonのレビューで、長編アニメにしてほしいほど心に残るものがあった、というコメントをされている方がいたが、これは非常に同意できる言葉である。

幼少時代というのは、誰にでもある。そして、それに懐かしさを感じるのは、自分の根源であるからだ。凡ての新しく見てきたものたちが剥がれ落ちた先には、自分の根源がある。誰しも、その思い出を雪洞ぼんぼりのごとく持っているのではないか。

その根源は、もう遠い場所にあるから淡い色彩で消え入りそうになるが、然し、思い出してほしい。
いつそれに思いを馳せても、淡いままに消えることは決してなかったではないかと。反対に、その淡い色彩は、煌めきすらをも帯び始めることを。

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