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【エッセイ】吉村萬壱「ガザに思う」

 小学生の時、団地の社宅に住んでいた。私は詰まらない悪さをしては、母からしょっちゅう叩かれたり飯を抜かれたりする子供だった。団地の地下の真っ暗な物置に私を閉じ込め、扉の向こうから「ネズミに齧られるぞ!」と脅すような母だった。太い二の腕と巨大な脹脛を持つ母に太腿や頬を捻り上げられると、痛さの余り絶叫したが誰も助けてはくれず、翌朝同じ棟の小母ちゃんが、登校する私をベランダから哀れむような目で見送っていたりした。小学校時代を通してすっかりぺしゃんこになった自尊感情や自信を少しでも取り戻すべく、私は野生の仔犬を崖の上からU字溝の中へ投げ捨てて後肢を骨折させたり、同級生を集団で小突き回して泣かせたりするような残酷な一面を育んだ。

 中学時代にオカルトブームが到来し、魔女に興味を持った。そして高校時代に社会科の課題で、森島恒雄の『魔女狩り』(岩波新書)とコリン・ウィルソンの『オカルト』(新潮社)を元に、退屈を巡る原稿用紙五十枚のレポートを書いた。

 このレポートを通して私は、魔女狩りという十五~十七世紀に吹き荒れた、どんなに弁明しようと問答無用に処刑されていった何十万人とも何百万人とも言われる魔女たちの大量処刑の事実を知り、慄然とした。生きたまま焼かれながらなかなか死ねず「もう少し薪を加えてください」と嘆願する魔女(男)に自分自身を重ね、処刑されようとしている妻が夫に宛てた「なにか死ねる薬を送ってください」という悲痛な手紙に震えた。夫は二度長文の嘆願書を書いたが、結局彼女は焼かれてしまった。私はこれを読んだ時、彼女の足元に薪をくべる自分を想像し、恐ろしさと共に言い知れぬ興奮を覚えた。爪先から焦げていき、余りの熱さに激しく身悶えする女を見詰めながら、刑吏である私は何かおぞましくも強烈な快楽のようなものが自分の中を駆け巡るのを感じた。それは人間を動物のように、幾らでも面白半分に殺すことが出来る真っ黒な欲動だった。私はその時笑っていたかも知れない。その不気味な欲動について私はレポートの中では触れず、魔女狩りの原因は人々の退屈な精神だったと結論付けた。

 池や川に投げ込まれて浮いたら魔女として絞首刑、沈めば無罪(しかし溺死することがしばしば)といった魔女裁判の拷問法は真面目なものとはとても思えず、それはどこか遊び半分で気分次第のところがある母の体罰を思い出させた。

 やがて私は人類の歴史に於いて虐殺は常態であり、ゲームのように繰り返される力の誇示であることを知った。

「大量殺戮は技術進歩の副作用である。石器時代この方、人間は手にした道具を殺し合いに使ってきた。人間は道具を作る動物で、攻撃的ではないとしても、殺すことが好きでやめられないのである」(ジョン・グレイ『わらの犬 地球に君臨する人間』みすず書房)

 ナチスドイツやスターリン、毛沢東など、二十世紀の百年間だけで人間が人間を殺した数は一億人を下らないという。植民地主義や人種主義はごく普通の人間を簡単に虐殺行為に引き摺り込み、日本もその例に漏れない。私は四十歳で小説家デビューし、二十年以上自分が最も恐れる人間の暴力性を巡って書いてきたが、幾ら書いても一向に不安は消えず、事態は年々悪くなっていると感じる。この国の差別と排除の空気は、戦後七十九年経った今でも植民地主義や軍国主義の亡霊を跋扈させ、寧ろ肥え太らせている気がしてならない。

 イスラエル軍が現在、エジプトとの国境の町ラファに追いやった百四十万人のパレスチナ人の頭上に爆弾を投下している。現地から送られてくるXのタイムラインの映像を見ていると、内臓が引きちぎられるような思いがする。同時にパレスチナ人を射殺し爆撃するイスラエル兵の中に、私はあの真っ黒な欲動を感じておののく。これは私見に過ぎないが、彼らが少しも真面目ではなく遊んでいるように振舞うのは、その根底にホロコーストの記憶だけでなくパレスチナ人の正しさに対する恐怖があるからだと思う。シオニズムがユダヤ教に基づかないこしらえ物であり、自分たちの所業が人間として許されないものであることを暴かれるのが怖いのだ。タイムラインのイスラエル兵たちの自撮り映像には、良心に追い付かれた時に自分たちが終わると知っている人間に特有の、真っ黒な衝動に呑み込まれて我を忘れようとする焦燥の色が見て取れる。歴史上、一旦走り出した虐殺行為はどれも、正しさからの逃避という極めて残酷で子供っぽい性質を帯びる。彼らが恐れるのはパレスチナの武力でも出生率の高さでもなく、パレスチナ人たちの持つ心根の正しさに違いない。

 魔女裁判で焼かれた妻は人として正しく神に訴えた。

「私から顔をそむけないでください。私が潔白なことはあなたもご存じです。お願いです。息もつまるようなこの苦しみの中に、私を放っておかないで!」(『魔女狩り』)

 焼かれても決して死なないものを、彼女は既に持っている。なぜなら彼女は無実であり、徹底して正しいからだ。それに対して、一九四八年以来今日までずっとパレスチナ人を民族浄化し続けているシオニズムの暴力には、正しさも、存在の奇跡や命に対する畏敬の念も何一つ感じられない。

『魔女狩り』の中で森島氏は、二度にわたってパスカルの『パンセ』から次の言葉を引いている。

「人は、宗教的信念によって行なうときほど喜び勇んで、徹底的に悪を行なうことはない」

 母は去年、九十二歳で亡くなった。ある日彼女は「あの頃は気分で叩いとったな」とポツリと言い、私は目を剥いた。人はいつか必ず自分の中の暗部と向き合わねばならない。植民地主義へと真っ直ぐに繋がる、母や私の中に存在する他者への理不尽な暴力性、差別主義、排他主義、事なかれ主義。

 ガザはそれを抉り出し、命懸けで突き付けている。


(初出 「文學界」2024年4月号

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