見出し画像

様々な思い出が走馬灯のように流れていく。人生は短し、されど人生は楽し。

整形外科に何度も通っている謙也一家だが、タクシーで息子と二人で行った。病気を気にする太刀ではなく、ほっとけば治ると思っている。「私がお金を出すから、息子の腱鞘炎の治療のついでに行っておいで」と男気を出す優子。これ以上の拒否は、できないと謙也は、「明日、一緒に行くよ」と返事をした。内心、医者に糖尿病だと宣告されるのが怖いので、拒否し続けてきた経緯がある。

「葉梨整形外科」は、謙也一家の係り付けの医者だ。椎間板ヘルニアの手術から風邪まで、有りとあらゆる病気を診てもらっている。病室もあり、内科医もいるので万能病院だ。「ここで、病院の建物が壊れるんじゃないかと思ったくらい、揺れた東日本大震災を体験したよ」と息子に言うと「僕も、家から裸足で外に飛び出してしまったよ」と言う。本当に2011年3月11日に起きた大震災は、2万2,000人の命を奪った。10万人を超える関東大震災に次ぐ大きな衝撃を与えた。「計画停電があって、ろうそく生活を余儀なくされたね」と苦い体験を語った息子。

ちょうど、息子が高校入学前で、高校まで優子と息子の二人で支給された教科書を取りに行った。「当時は、車だと渋滞していて、高台にある高校まで行けなかった。それで、お父さんに学校の下の交差点まで迎えに来てもらっておいて、そこまで二人で重い教科書を持って歩いたよね。手がちぎれるかと思ったほど重かった」と回想しながら優子が当時を振り返って話した。

家族三人で共有していることが多いのに驚いた。アメリカで、SOHOという言葉が流行した。Small Office Home Officeの略でソーホーと呼んだ。息子が生まれた1995年に中目黒の事務所を畳んで、海老名に引っ越してきた。まさに、自宅兼事務所だった。土地は借地だが、持ち家だった。7〜8年貸していたので、古いが痛みは少なかった。台所を板を打ち付けて改装したり、居間も壁紙用に下地に板を打ち、壁紙を貼ったろしながら改装する日々が続いた。荒れた庭も花を植えてガーデニングに勤しんだ。経験したことのなかった日曜大工やガーデニングなどをやりながら、充実した日々を過ごした。

今まで続いた仕事を全部辞めてしまったので、インターネットを使ったビジネスを始めた。とりあえず、本を読みながら、ファッション関連のリンク集のホームページを作成した。「ところが、最先端の業界だと思っていたファッション業界は、もっとも古い体質だったのに驚きを隠せなかった」と謙也が同僚たちに当時の模様を語った。実際は、臆病な業界人が多い。年寄りが多過ぎて、前に進めないこともある。

ネットに関しては、比較的早く始めたので、ランキングページなどもやった。雑誌ランキングで常に上位にいたメンズノンノの編集長から編集者を通じてオファーがあった。初対面で、「最初は、敏腕な女性かと思っていたよ。」と言われた。「忍」というペンネームを使っていたので、辛辣な女性編集者と思われたいたようだ。それは、ネット調査をしていた電通関連の会社の細田力にも同じことを言われた。そんな訳で、様々なメディアや会社から連絡があった。創業者利潤という株の話に似ている。新しいジャンルのベンチャーや創業者は、有形無形に関わらず、何らかの利益がある。

毎日新聞の編集者からもNHKの記者からも取材や話し合いのオファーがあった。NHKは、「早起きで儲かる」と言った内容の10分程度の番組の取材を受けた。丁度、運悪く、息子が「川崎病」にかかり、入院した。病室のテレビで観ていたので、ビデオ録画もしていなかった。医師の話をろくに聞かないで、テレビをつけっぱなしで上の空で診察を受けたという経験がある。ネットと全く関係のないことで新聞、テレビに取り上げられた。NHKの凄さは、夕方の首都圏ニュース枠なのに、新潟の親戚からテレビで見たよと連絡があって、全国で使われていることに驚いた謙也だった。

思えば、様々なことがあったと謙也は振り返る。どれもこれも、家族が一緒にいるということで楽しめたり、苦しさから立ち上がったりした。写真や映像がなくても、謙也や優子、息子の頭の中に鮮明に残っている思い出がある。それが、財産だと確信している。面白いことは、頭の中で映像化されると確信した謙也であった。愉快に生きようと決めた。検査結果も全ての病気に繋がる糖尿病はセーフだったようだ。健康だけは、本人の自覚と努力がなければ、治らないし、維持できないものだ。愉快に楽しく生きるのが、ベストだ。謙也の母親は、まさしくピンピンコロリでその日のうちに死んだ。救急隊員の顔を見て、「お前さん、いい男だね」が最後の言葉となった。「母らしい一言だったよ。」と家族全員が大笑いした。私も、大笑いさせて死にたいと思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?