【映画】「国境の夜想曲」感想・レビュー・解説

僕はこの映画に「退屈さ」を感じてしまった。
それは、良くないことだと思う。

以前、『こうして世界は誤解する』(ヨリス・ライエンダイク/英治出版)という本を読んだことがある。「アラビア語が話せる」というだけの理由で、記者のイロハも分からないまま中東の特派員になった著者が、「報道」の現実を切り取る作品だ。

その中で、「報道とは『変化』を伝えるものだから、『独裁政権下』という『状態』はニュースにならない」という話が展開される。中東において最も取り上げるべきは、「『独裁政権下』という『状態』」なのだが、「状態」というのは基本的に大きな「変化」を生み出さないので取り上げにくい。一方、そういう「独裁政権下」で起こった「変化」は取り上げられてしまう。実際に起こったことを報道は伝えているのだが、「『独裁政権下』という『状態』」について詳しく触れずに「変化」ばかり取り上げるため、伝わる意味合いが変わってしまうというのだ。

例えば私たちは、動物園で動物たちの姿を目にする。例えばある動物園で、ゴリラが非常に不機嫌だとしよう。それを見る私たちは、「不機嫌な性格のゴリラなのだ」と捉えるだろう。しかしそのゴリラも、森など自然環境にいればそんな不機嫌な状態にならないかもしれない。「狭い空間に閉じ込められている」「人間からジロジロ見られている」という、「自然界ではあり得ない『状態』」にあるからこそ、ゴリラの不機嫌さが表に出ているかもしれないのだ。

しかし私たちは、そういう「状態」のことを考慮せずに、その不機嫌さを「個体の問題」と捉える。確かにゴリラは不機嫌であり、それを取り上げることは「事実」なのだが、「状態」に触れないと正しく情報が伝わらないということなのだ。

『こうして世界は誤解する』の著者も、現地で実際に目にする光景と、報道が切り取る現実が乖離する現状を理解し、警鐘を鳴らしている。

同じようなことを、この映画に対しても感じさせられた。

この映画で映し出されるのは、レバノン・クルディスタン・イラク・シリアの国境地域における「状態」だ。そして私がこの映画に「退屈さ」を感じてしまったことは、報道機関が「『状態』を報じても視聴率は取れない」と判断しているまさにそのことを如実に証明する形になっていると感じる。

とても良くない。良くないが、「退屈だ」と感じてしまったのだから仕方ない。

正直、全編を通じてほとんどうつらうつらしてしまったので、映画の内容は断片的にしか覚えていない。とにかく、音楽もナレーションもないまま、どこの誰が何をしているのかという説明も基本的に加えられず、ひたすらに「情景」を切り取っていく。特別な何かをしている人が取り上げられているというわけではなく、船に乗って釣りに向かう人や、理由は不明だが荒れた道路で車を待っている少年など、なんということはない人々の姿が映し出されるのだ。

その一方で、国境なのだろうか、軍服を来た者が銃を携えて警備をしていたり、街明かりが煌めく夜景の背景で機関銃らしい銃声が響いていたりと、「有事」を連想させる場面もある。

印象的だったのは、「ISIS」が関係する描写だ。例えば、幼い子どもたちが絵を描き、カウンセラーに話をしている。ISISが村を襲い、人々を殺した記憶を、子どもたちは淡々と語る。中には、「目の前で誰かの首が切り落とされ、それを『食べろ』と命じられた子ども」も出てくる。凄まじい経験だ。あるいは、ISISに誘拐された娘から届いたボイスメッセージを涙しながら聞く母親の姿も映し出される。同じく、その壮絶さには言葉もない。

このような「分かりやすい悲劇」には、やはり簡単に反応できてしまう。このISISが関わる部分だけは、狙いすましたかのように眠気が吹っ飛んだ。しかしそうではない、淡々と「状態」を映し出す場面になると、どうにも関心を継続することが難しかった。

映画を観ている最中も、「こんなんじゃダメだな」と感じていた。しかしそれでも、「無理やり関心を持つこと」は難しい。私は一般的な人よりは社会問題などに関心を持っているタイプの人だと思うが、それでも関心を持ちきれないのだ。そもそも社会問題に関心を持てないでいる人たちを振り向かせることの難しさを改めて感じさせられた。

こういう映画を観て「良い」と感じる人間でいたかったなと思う。そう思えなかった自分に、残念だ。

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