【映画】「クエンティン・タランティーノ 映画に愛された男」感想・レビュー・解説

さて、僕が観たことのある「クエンティン・タランティーノ作品」は、『パルプ・フィクション』だけである。しかも、最近映画館で観た。リバイバル上映的なやつだ。他の作品は、『KILL BILL』以外、タイトルも知らなかった。

みたいなレベルの人間がこの映画を観て、感想を書いている、ということをまずは理解してほしい。

僕は基本的に「変わった人間に興味がある」(というか、より正確に言うなら「変わった人間にしか興味がない」)ので、クエンティン・タランティーノも「変わった人間」枠として興味がある。といって、クエンティン・タランティーノについて何か知ってるというわけでもない。なんとなく「映画オタクなんだろう」ぐらいのことは理解していたが、「デビュー作を撮るためのお金をTV出演で稼いだ」とか、「最初は脚本家として頭角を現した」とか、『監督デビュー作がカンヌで絶賛され、瞬く間に世界的スターになった』みたいなことは全然知らなかった。タランティーノがハーヴェイ・ワインスタインと組んで映画を作っていたことも、撮影中にユマ・サーマンが事故で重度の後遺症を負ったことも、「10作撮ったら映画監督を辞める」と公言していることも、全然知らなかった。

でも、この映画は面白かった。タランティーノのことも、彼が作った映画のことも全然知らない僕でも、映画を観ながら思わず笑ってしまうような場面が結構あった。

映画は、「様々な形で、クエンティン・タランティーノと関わった者たちのインタビュー」と「タランティーノ作品の映像の断片」で構成されている。関わった者たちの中には、プロデューサーやスタントマンもいるが、多くは、タランティーノ作品に出演したことがある役者たちである。

しかしまあ、誰もがタランティーノのことを「楽しそう」に語る。まずその語られ方だけでも、クエンティン・タランティーノという人物がどれだけ愛されているのかがシンプルに伝わってくると言えるだろう。

そして、彼らが語るエピソードの1つ1つが、「異常」とも言うべき、タランティーノの「映画愛」を補強するものになっている。

こんなことを言う役者がいた。タランティーノは「カット」と口にすると、続けてこう言う。「完璧だ。次に進んでもいい。でももう1回撮ろう」。そしてそのすぐ後で、何かの映画のメイキング映像に変わる。そこでタランティーノと役者たちが、「Take one more because we are loving making a movie(もう一回撮ろう。僕らは映画を撮るのが好きなんだから)」(英語は、なんとなく覚えている感じを書いただけで正確なものではありません)と唱和する。多くの役者が、「タランティーノの現場は楽しい」「いつも笑いが絶えない」と口にするし、「撮影中もクエンティンは笑うんだ。編集泣かせだよ」みたいに言う人もいた。

撮影現場は家族のようなものらしく、実際、タランティーノ作品のスクリプターは1作目から、録音技師は2作目から、ずっと同じ人を起用しているそうだ。映画の中では、サリーという人物についても言及された。タランティーノが「唯一の共同制作者」と断言する編集者であり、脚本も共同で担当する(こともある?)そうだ。既に他界してしまったそうだが、タランティーノが「狭い編集室で寂しく作業しているサリーに何かメッセージを!」と役者たちに頼み、多くの役者がカメラに向かって「はい、サリー!」と言う場面が多数映し出されていた。

多くの人が語っていたのが、その「脚本」の異常な面白さについてだ。とにかく、脚本が死ぬほど面白いらしい。誰もが「圧倒的」だと語っていた。また、黒人や女性をフラットに(時には強く)描くのも特徴的だそうで、いわゆる「偏見」的なものがまったく無く作品を生み出すのだそうだ。

ある人物は、

【誰にも扱えないテーマやキャラクターを使いこなす。普通の白人には無理だ】

と言っていたし、別の人物も、

【クエンティンはどんなテーマでも作品を生み出すことが出来る】

と語っていた。

さて、そんな風に自ら脚本を書き物語を生み出す映画監督だが、その上で「役者たちに物語を膨らませる余地を作る」のだと言っていた。最終的には、役者の存在ありきで物語を完成させるというわけだ。

以前テレビ番組で、三谷幸喜が脚本の作り方について語っていた。三谷幸喜は、「この役者がどんなことをしたら面白いだろうか?」と発想して、まず印象的なワンシーンを作り上げる。そしてその後で、そのシーンが成立するように全体の物語を組み立てる、みたいなことを言っていたと思う。三谷幸喜も「役者の存在なしに、自分の脚本は存在しない」タイプであるようだ。脚本なんか書いたことはないので何が普通なのか僕には分からないけど、やっぱりそういうスタイルは珍しいんじゃないかと思う。

色々と印象的なエピソードはあったが、映画に登場するスタントウーマン(役者でもある)が語っていたエピソードは、「映画愛」に溢れたものに感じられた。

カースタントのシーンで、実際に走る車にスタントの女性をくくりつけて撮影をした。その後、その撮った映像をそのスタントウーマンが観て、「なんて素晴らしい映像なんだ!」と感動したそうだけど、タランティーノから「このシーンの問題点は?」と聞かれたそうだ。「問題なんかない、完璧よ」と言ったそうだが、タランティーノは「君の顔が映ってないから、撮り直しだ」と言ったという。スタントの女性は、普段の癖で顔を隠してしまったのだが(その映画には役者として出演していた)、「君がやっていることが伝わることに意味があるんだ」と言って、タランティーノは撮り直しを決めたそうだ。なんか良い話だなぁ、という感じがした。

ある人物が、

【望むと望まざるとに拘わらず、彼の熱意は周囲に伝わる】

と言っていた。その感じは、確かに伝わる。「なんだか楽しそうにもの作りをしているなぁ」という雰囲気に満ちあふれていると感じた。ちなみに、撮影期間中、スマホを持っていることがバレたら「クビ」だそうだ(スマホは預けることになっているという)。

映画では、ハーヴェイ・ワインスタインの性加害問題にも触れられている。映画を観るまで知らなかったが、クエンティン・タランティーノとハーヴェイ・ワインスタインは長らく盟友だったそうなので、扱わないわけにはいかなかっただろう。

個人的には、「扱うならもうちょっと長めに扱った方が良かった気がするし、扱わないならまったく扱わないという選択も出来たんじゃないか」と感じた。ちょっと全体のバランスとして、ハーヴェイ・ワインスタインの部分が中途半端に感じられてしまった。これは勝手な予想だが、「ハーヴェイ・ワインスタインについて触れないわけにもいかないから、申し訳程度に入れておこう」みたいな感じだったんじゃないかなぁ、という気がしてしまう。もう少し、どちらかに振り切った方が良かったような気がした。

僕が唯一観たことがある『パルプ・フィクション』は、正直「うーむ、面白いは面白いけど、よくわからんぞ」ぐらいの感じだったので、他のタランティーノ作品を観てどう感じるか分からないけど、とにかく「映画愛に溢れた映画オタク」だってことは理解できたし、映画であるかどうかに限らず、「こういうもの作りと関わりたいよなぁ」と感じさせられた作品だった。

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