【映画】「王国(あるいはその家について)」感想・レビュー・解説

いやー、久々に、超絶ぶっ飛んだ、なかなかにイカれ狂った映画を観たなぁ。たぶん「永遠に未消化のままの作品」になるだろうけど、一旦観終わった感想としては「観れて良かった」と思う。ちょっとありきたりな表現にはなるが、「『映画』という表現が持つ枠組みが、ちょっと広がったような感じ」になれた作品だ。

しかしこの作品、説明が異常に難しい。なのでまず、本作中のある一部分を丸々書き写してみよう(当然これは、僕の記憶で書き起こしているものなので、正確ではない)。

「城南中で教えてるの?」
「うん、今年の4月からだけどね」
「へぇ、城南中で美術の先生かぁ」
「うん、何?」
「いや、だって城南中だよ」
「あぁ、昔は荒れてたとか、そういうこと?」
「聞いてた?」
「野土香も最初、そんな反応だった」
「私たちの頃とは違うんだって」
「えぇー」
「いやでも、それって、自分たちのところと比べてちょっと荒れてたとか、髪の色が派手とか、そういうことだろ?」
「あー、そうだったかも。私たち、私立の女子校だったからね」
「いやいや、そんなんじゃないって。大変だったんだから。窓ガラス、まったくなくて」
「あー、寒かったよねぇ」
「一緒に行ったよね?」
「えっ、何の話?」
「あぁ、ね、同じ小学校だった子が城南中で吹奏楽部に入ってね」
「そうそう、マッキー」
「そう!『グロッケン叩きのマッキー』ね」
「えー、『マッキー・ザ・グロッケン』じゃなかった?」
「あー、そうだったかも」
「でしょ。でも、『グロッケン叩き』ってなんか聞き覚えあるんだよなぁ」
「どっちだっけ?」
「えーっと、ちょっと待って」
「いやいや、どっちでもいいから、何?」
「えーっと、何だっけ?」
「だからぁ、同じ小学校の子が城南中で吹奏楽部」
「そうそう!……で、何だっけ?」
「定期演奏会」
「そうそう! 定期演奏会があるっていうから行ったのね。そしたらもう別世界。体育館の窓、全部無くて」
「窓、窓……窓っていうか、元々窓があった場所、そこにダンボールが敷き詰められてて」
「風が吹くとバタンバタン音がして」
「演奏会どころじゃなかったよね」
「落描きとかも凄かったもんね」
「埋め尽くされてた」
「そうかぁ、今は大分変わったけどなぁ。生徒も大人しいもんだし」
「まあ、いじめとか不登校とか、そういうのはあるみたいだけどね」
「……ま、それはあるな」
「……いや、別に、どのクラスの誰がってことじゃなくて」
「……だから、直人さんが城南中で美術教師って聞いて、落描きを教えてるんだって思った」
「あははは」
「直人先輩、上手く教えそうだし」
「分かるー」
「そうかぁ?」
「ほら、何にでも理屈をつけたがるでしょ?」

細部はともかく、全体の流れはかなり正確に書き出せていると思う。

しかし何故僕は、こんなやり取りを覚えているのか。別に「メチャクチャ記憶力が良い」とかではない。理由はシンプルだ。このやり取りが、作中で繰り返し繰り返しなされるからである。僕の体感では、恐らくこのやり取りが一番繰り返された回数が多かったと思うが、20回以上はあったんじゃないかと思う。

別にタイムループしているとかそういう話ではない。本作は、「3人の役者が台本読みをしている様を映し出す作品」なのである。台本は存在する。亜希・野土香・直人という、大学時代同じサークルに所属していた3人が、野土香・直人夫妻の娘・穂乃香を含めた関わりの中で、人間関係に様々な亀裂やしこりが刻まれていくような、そんな物語である。そしてその物語が刻まれた台本を、澁谷麻美・笠島智・足立智充という3人の役者が、台本を片手に読み合わせを行う、その様をカメラで撮り、それをドキュメンタリー的に映し出す作品なのである。

何を言っているのか、伝わるだろうか? まあ、実際に観てもらわないと、ちょっとイメージを持ってもらうのは難しいだろう。

台本読みの様子を撮影しているのだから、当然、同じ箇所を繰り返し練習する。台本読みの環境は少しずつ変わり、最初は単なる長机に横並びに座ったまま、その後実際のシーンの配置通りに座って読む、さらに台本を置き演技しながらセリフを口に出す、というような様々なパターンで行われている。しかし、口から出てくるセリフは、当然だがすべて同じものだ。

だから、通常の映画鑑賞ではほぼあり得ない状況だが、「役者が次にどんなセリフを口にするのか理解できる」という状況で映像を観ることになる。そしてそれはある意味で、不思議な体験をもたらすことになる。映像には、「亜希・野土香・直人の物語世界」がビジュアル的に映し出されることはほぼ無いのだが(一部あるが)、セリフの多重録音のような構成の本作を観ていると、何故か、「亜希・野土香・直人の物語世界」が視覚化されていくような錯覚に陥るのである。

そしてそのことは、ある種、「亜希・野土香・直人の物語世界」の主たるテーマでもある「王国」へと接続されていくような感覚がある。

作中で「王国」という言葉は、特別な意味を持っている。幼馴染でもある亜希と野土香は、22年前の台風の日に、椅子とシーツで「王国」を作り上げたのだ。そして2人は、その「王国」への扉をくぐるための「合言葉」となる歌も決めた。そしてこのことが、「亜希・野土香・直人の物語世界」における「ある事件」に関して非常に重要な意味を持つことになる。

「椅子とシーツで作った王国」はもちろん、実際には存在しない不定形のものだ。しかし2人にとってその王国は、確かな感触を持つ存在でもある。そしてその関係性は、本作『王国(あるいはその家について)』にも当てはまるように感じる。観客にとって、台本の朗読によって作り上げられる「亜希・野土香・直人の物語世界」は、「存在しない不定形のもの」と言っていい。しかし、セリフが繰り返されることによって「可視化されたような気分」になることで、その世界の存在感が「確かな感触」を持つようにも感じられるというわけだ。

個人的には、まずその点が非常に新鮮に感じられた。

ここで一旦、「亜希・野土香・直人の物語世界」について少し触れておこう。

色々な不調が重なり、出版社の仕事を休職中の亜希は、都内から1時間半掛かる茨城県龍ケ崎市にある実家にしばらく戻っていた。あらかじめ連絡を取っていた幼馴染である野土香と会うのは、同じサークルの1個上の直人先輩との結婚式以来4年ぶりで、だから、3歳になる娘の穂乃香ちゃんと会うのも、彼らが建てた家を訪れるのも初めてである。

亜希は当初、彼らの家に「隅々まで行き届いた居心地の良さ」を感じていたのだが、次第に窮屈さを感じるようになっていった。そしてそれは、ひとえに夫・直人の神経質さによるものと思われた。中学で美術教師をしている直人は、娘のために細部まで神経を張り巡らせている人物であり、野土香の幼馴染としては、そのことによって彼女が息苦しさを感じているのではないかと思えてしまった。そのこともあり、その後も度々家を訪れては、何かの機会がある度に彼らの生活に忠告めいた助言を口にするようになっていく。

しかし、「娘のため」が最優先である直人にとっては、その助言は「ありがた迷惑」にしか感じられないものだった。野土香とも話し合い、夫妻はしばし亜希を家から遠ざける決断をする。

しかしその後、野土香から緊急の連絡があり、少しだけ穂乃香を見てもらえないかと言われた。折しも台風が近づいている日であり、穂乃香ちゃんは大いに台風に気を取られているようだった。亜希はどうにか穂乃香ちゃんの関心を別のものに向けようとするのだが、台風の目に入った頃、穂乃香ちゃんから「外に出たい」とせがまれてしまう。悩んだ末、増水した川を見に橋まで向かい……。

さて、本作『王国(あるいはその家について)』は、取調室のシーンから始まる。警察が清書した調書を読み上げ、問題なければサインをしてもらうという手続きの場面である。刑事の向かいに座っているのは亜希。彼女は自ら、「穂乃香ちゃんを橋から投げ落とした」と告白し、殺人容疑で裁判を待つ身である。

この冒頭の取調室のシーンは「亜希・野土香・直人の物語世界」が描かれていると言っていいだろう。そしてこのシーンが終わると、唐突に「台本読み」の場面に切り替わり、それから最後まで台本読みだけで物語が終わるという構成になっている。

全体の構成としてまずとても上手いのが、冒頭に取調室のシーンを持ってきたことだと言えるだろう。ここでは刑事が調書をすべて読み上げるのだが、それを聞いていれば、亜希・野土香・直人・穂乃香ちゃんの関係性や、事件までに起こった出来事が端的に理解できるからだ。

もしそれらの情報を把握しないまま「台本読み」のシーンが始まっていたら、より混乱していただろうと思う。喋っているのが誰で、何についての話をしているのかを掴むのに相当な困難が想像される。もちろんその辺りのことを考慮してこのような冒頭のシーンになっているのだと思うが、まずはこの構成がとても良かった。

その後、150分のほとんどの時間を「台本読み」が占めるわけだが、もちろんこの部分も、先程触れた通り、「セリフの多重録音によって物語世界が幻視される」という面白さがあり、今まで観たことのない種類の映像でもあり、「面白かった」と書くとちょっと感覚がズレる感じがあるのだが、面白かった。

しかし僕は、映画の最後、亜希が自らの罪を告白し、その時何があったのかを野土香に伝えようとする手紙を朗読するシーンが特に良かった。シーンというか、その手紙の内容に対してだ。

冒頭が取調室のシーンから始まるものの、「台本読み」のシーンはほぼ、穂乃香が殺される以前の部分であり、そのため「亜希は何故穂乃香ちゃんを橋から投げ落としたのか」に直結するような部分はほとんど無いと言っていい。しかし、最後亜希が読み上げた手紙の内容を踏まえると、その「台本読み」で描かれている部分の中に散りばめられている様々な要素がひっつきあって、「理解不能」としか思えない「亜希の動機」が上手く浮かび上がっている感じがする。

いや、まあ本質的にはそれは嘘だろう。亜希自身が手紙の中で、「私たち以外の人にはきっと何を言っているのか分からないと思う」と書いているからだ。そして興味深いことに、亜希は野土香に向けて、「あなたなら理解できるのではないかと思っています」と書いた上で、さらに「でもだからと言って、自分のことを責めないで下さい」と記しているのだ。

確認のために書いておくが、亜希は野土香の娘・穂乃香を殺したのである。その亜希が野土香に向かって、「自分のことを責めないで下さい」と言っているのだ。普通に考えれば、これは「狂気」でしかないだろう。

しかし一方で、繰り返し繰り返し語られた脚本から浮かび上がる物語は、「亜希の理屈」に一筋の可能性を指し示している。すべての人がそれを理解できるとは思わないし、僕にしても完全に分かっているなんてことはないのだが、しかし、「王国」という、亜希と野土香にしか通じない言葉を使って「穂乃香ちゃんを殺した理由」を語る亜希の内心が、僕には少し理解できるような気がしたのだ。

だから、亜希が手紙を朗読しているシーンは、ちょっとゾワッとした。何故なら、「亜希の理屈」が理解できてしまうのは、一般的な倫理観からすれば「良くないこと」だからだ。

そして面白いのは、「亜希・野土香・直人の物語世界」は決して、「亜希の狂気」を描き出すために存在しているわけではない、ということだ。

僕が印象に残ったのは、亜希の手紙の中にあった、「空間を持ってしまった王国」という表現である。亜希と野土香にとって「王国」というのは、「確かな手触りを有しながら、物理的な空間に囚われないもの」として存在していた。しかし、野土香・直人夫妻が家を建て、まさにその空間を「王国」のように仕立て上げようとしている様を見て、亜希はそこに器具を覚えるのである。

亜希のこの捉え方がそもそも「狂気」なのであるという捉え方ももちろん可能だ。しかし、「台本読み」の中で紡がれる物語においてはむしろ、直人の方こそが「狂気」であるように受け取る人もいるだろう。僕はどちらかと言えばそのように感じた。最終的に「殺人」という行為に手を染めてしまった亜希は、その客観的な事実から「狂気」と判断されても仕方ないのだが、実は本当の「狂気」は直人の方にこそ宿っており、さらにそれが野土香・穂乃香にも伝染していたのではないか。

「亜希・野土香・直人の物語世界」はむしろ、そのような「狂気」を切り取っている作品なのではないかと僕には感じられたのだ。

作中では一切、「亜希が穂乃香ちゃんを殺した後の野土香・直人の反応」が描かれないので、何をどのように受け止め、どう解釈しているのかはまったく分からない。容易に想像出来るのは直人で、彼は当然の如く「やはり亜希は異常だった」と、亜希と再び関わりを持ったことを後悔していることだろう。

しかし、野土香の方はどうだろうか?

「台本読み」の中で、直人が野土香を叱る場面が繰り返し語られる。「穂乃香が大きくなるまで止めようと決めていた約束」を野土香が破ったことが原因である。しかし、その「約束」が何なのかは、最後まで分からない。まあ、結果的には、その「約束」そのものは、直人自身も言っていたように「ちっちゃいこと」だったのだが、ただやはり、重要なポイントは、「何故野土香は約束を破ったのか?」という点だろう。

この点についても結局、はっきりと推定できる要素はないのだが、ただ、方向性としてはやはり、「直人と同じレベルでは、娘のことを考えることが出来なかった」ということではないかと思う。にも拘らず、2人の「王国」である自宅は、「娘のため」という直人の神経が細部まで張り巡らされている。亜希が感じ取っていた通り、野土香はやはりそのような状況に「窮屈さ」を感じていたのかもしれない。

とすれば、亜希が手紙で書いていた「空間を持ってしまった王国」という指摘に野土香が共感した可能性はゼロではないと思うし、とすれば、野土香は直人とはまた違った認識の中にいると考えていいのではないかと思う。

まあ、正直なところ、屋上屋を架しているような、砂上の楼閣そのものでしかないような拙い想像なのだが、ただ、このような思索をいくらでも深く出来てしまう「細部」と「余白」に満ちた物語であると言うことは出来ると思う。

公式HPを読むと、「演出による俳優の身体の変化に着目」とか書かれており、正直その辺りのことは僕にはピンと来ず、よく分からない。僕がここでつらつら書いたことはきっと的外れなのだろう。

まあそれでも、こんな風にあれこれ考えてしまいたくなるような作品だったことは事実であり、まさに「未知の鑑賞体験」だと言えるだろう。面白かったかどうかについてはなんとも言えないが、観て良かったと思う。

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