【映画】「正欲」感想・レビュー・解説

いやー、ホント、もう「分かるー」って言葉しか出てこない映画だった。ホントそう。ホントそうだわ。ホント、全人類にこの映画を観てもらって、「俺は、桐生夏月(新垣結衣)とか佐々木佳道(磯村勇斗)みたいな人間だからよろしく」つって自己紹介を終わらせたいぐらい。いや、マジで。

特に、予告でも流れるシーンだが、

【誰にもバレないように、無事に死ぬために生きてるって感じ。】

ってセリフは、ホントそうなんだよなぁ、と映画を観ながら改めて思った。

昔からずっと、「人間でいるの、ダルいな」と思っていた。今は割と、「擬態の能力」がかなり高まりすぎて、あまりこういうことが意識に上る機会は減ってきたが、「意識に上らない」というだけで、僕の中身は別に特に変わっていない。今も、「人間でいるの、ダルいな」と思っている。まあそれでも、死ぬわけにもいかないし、生きていないといけないんだとしたら出来るだけ「不愉快」を避けて通りたいから、それで「擬態の能力」が高まった、みたいなところがある。

今まさに観ているドラマに『いちばんすきな花』がある。『正欲』ほどディープではないものの、同じライン上に存在する映像作品だと思う。で、『いちばんすきな花』の中で、今田美桜が演じる役柄の女性が、「『女の子でいるのが辛い』って保健室の先生に相談したことがある」という話をするシーンがある。

その「女の子でいるのが辛い」と同じ感じで、僕は「人間でいるのが辛い」と思う。

さて、「女の子でいるのが辛い」と保健室の先生に相談したらどうなったのか。保健室の先生は、「Lは◯◯で、Gは◯◯で……」と定義の話をし始めたのだそうだ。彼女が「そうじゃない」と言うと、今度は、「男の子のことが好き? 女の子のことが好き?」と聞かれ、「あぁ、もう話が通じないんだな」と思って諦めたと、多部未華子演じる役柄の女性に話していた。

そのシーンを観た時にも、「あー、分かるー」と思ったのだが、『正欲』を観て改めてこの場面のことを思い出した。

僕も、直接的にそうは言わないが、「人間でいるの、ダルいな」的なニュアンスのことを言ってみることがある。そして、「話が通じないタイプ」の人から返ってくる反応は、大体同じだ。「楽しいこと、やりたいことを見つけなよ」「体動かしたりしてパーッと発散しようよ」みたいなこととか、あるいは「辛いなら相談に乗るよ」などだ。そういう反応になると、「まあそうだよね、伝わらないよね」と感じて、伝えようとすることを諦めてしまう。

そうじゃねぇんだよなぁ。

みたいなことを、桐生夏月も佐々木佳道も、ずっと感じ続けた人生だったはずだ。だから、彼らと何か「分かりやすい共通点」があるわけではないのだが、その一点、つまり「人生で『そうじゃねぇんだよなぁ』と感じ続けてきた」という点だけで、彼らに激しく共感できてしまう。

映画で一番好きだなと感じたシーンが、まさに先ほど紹介した「誰にもバレないように、無事に死ぬために生きてるって感じ」から始まる2人のやり取りだ。佐々木佳道は、「もう1回だけ頑張ってみよう」と思って努力してみたけど、やっぱり「人間とは付き合えない」という結論に行き着いてしまう。それに対して桐生夏月が、「命の形が違っとるんよ」「地球に留学しとるみたいな感覚なんよ、ずっと」と応じる。

そしてさらに桐生夏月は、

『自然に生きられる人からしたら、この世界はとても楽しい場所なんだと思う。私が傷ついてしまう1つ1つが全部楽しくて、私も、そういう目線でこの世界を歩いてみたかった』

と口にするのだが、それに対して佐々木佳道が、

『自分が話してるのかと思ってびっくりした。』

と返すのだ。

そして僕もまた、「自分が話してるのかと思ってびっくりした」ので、まさに佐々木佳道と同じ感覚だったと言っていい。ホント、この場面における2人のやり取りすべて、口から出る言葉すべてが、僕の内側にもそのままの形で含まれているという感じがあって、ホントに「自分が話してるのかと思ってびっくりした」という感じだった。

僕は、高校時代までは「勉強ができる(勉強を人に教えられる)」という能力だけでどうにか生き延び、誰もが名前を知っているだろう大学に入学したが、就活の時期が近づくと、「このまま『普通の人』として社会に出たら、絶対にどっかで死ぬな」と確信があり、3年の頭に大学から大学に行かなくなった(その後の手続きを自力でやっていないので、最終的に「いつ退学した」という扱いになっているのか知らない)。そして現在まで、適当にフラフラと色んな職場を渡り歩きながら、まあ「人に迷惑を掛けない程度」には生きてきた、と思う。

僕は未だに、「大学を辞めたこと」を一度も後悔したことがない。というか、「辞めて正解だったなぁ」とさえ思っている。自分の内側の何かを限界まで振り絞ればきっと、就活をしてどこかの企業の内定を取るみたいなことは出来たかもしれない。あるいは、理系だったので、大学院に進んでもう少し学生時代を延長する選択もありだっただろう。ただ、結局それは「先延ばし」に過ぎないことが分かっていた。どこかのタイミングで、自分がぶら下がっているロープが切れることは間違いないという確信があった。だったら、あまり高いところまで進んでいない時点で落ちておいた方が、ダメージが少ないんじゃないか、みたいに当時冷静に思考できていたはずがないのですべて後付けだが、しかしそういう確信が僕の中にある。

あの時大学を辞めて、「『ダメな側の奴なんです』という称号」みたいなものを得た気分になれたことで、「社会の中で『良し』とされている価値観」から逃れやすくなった。それは間違いなく僕を生きやすくしてくれたし、間違いなく、今日まで僕がそこそこ生き延び続けていられている背景だと言える。

みたいな話は、「普通の人」にはまず通じないし言わないのだけど、桐生夏月や佐々木佳道にはきっと通じるはずだし、だから僕は彼らに会いたいなと思う。

いや、僕は割と幸運なことに、桐生夏月や佐々木佳道みたいな人たちと結構出会えてきた。というか、桐生夏月や佐々木佳道みたいな人とちゃんと出会えるようにメチャクチャ努力してきたつもりだ。だから本当に、この映画のラストの展開がとても悲しい。とても悲しい。悲しすぎる。

「努力」が「無理解」によってあっさりと踏みにじられているからだ。

桐生夏月や佐々木佳道みたいな人と出会うのは、とてもとてもとてもとてもとてもとてもとても難しいことだ。本当にそこには、絶望的な困難が伴う。桐生夏月や佐々木佳道は、「共感され度」みたいなものがかなり低い人たちだと思うので、僕なんかよりも圧倒的に苦労しているはずだし、彼らと比べれば、僕が「価値観の合う人」と出会うことはそう難しくないと言えるかもしれない。

でもやっぱりそれはとても難しい。「地球に留学に来ている」みたいな感覚なのだから、正直、「周りの振る舞いを観察して真似する能力」みたいなものは高い人が多いと思う。佐々木佳道はまさにそういうタイプだし、彼自身「擬態」という単語を使っていたように、「『明日生きたい人』を演じること」は、結構出来てしまう。

またもう1つ、これは決して文句ではないし、全体としてはとても良い変化だと思っているのだが、「『多様性』という言葉が当たり前に使われるようになった世の中」だからこその難しさもある。この点については、映画の中で諸橋大也が描かれるパートでかなり示唆されることだ。

「世の中には色んな人がいて、それぞれを尊重していきましょう」みたいな風潮はとても良いと思うし、どんどんそういう方向に進んでほしいと思う。ただなんというのか、「多様性」という言葉が強くなりすぎたせいで、「自分とは違う存在を”理解し、受け入れなければならない”」みたいな圧力が強くなりすぎているように感じられることに違和感を覚えてしまうことがある。

僕が思う「多様性」というのは、「理解できなくても、受け入れられなくても、否定さえしなければいい」ぐらいのものだ。『正欲』に通底する感覚も、まさにそのような感じだと思う。桐生夏月も佐々木佳道も他の者たちも、「理解されたいわけでも、受け入れられたいわけでもない」と僕は思う。ただ「否定されたくない」だけのはずだ。

しかし世の中では、「理解し、受け入れなければならない」という感覚が強い感じがする。ここに違和感がある。

何故か。それは、「『理解し、受け入れなければならない』と考えている人には話しにくい」からだ。

それがなんであれ、自分の「『普通』から外れた部分」を人に話そうという場合、目の前にいる人物が、「理解するかも分からないいし、受け入れるかも分からないけど、否定だけは絶対にしない」という人なら、とても話しやすい。しかし、「否定しないことは大前提として、理解し受け入れようと考えている」みたいな人にはとても話しにくい。どうしても「理解や受け入れを相手に強制している」みたいな感覚になってしまうからだ。

別にそんな風に思いたいわけじゃない。ただ、自分の考えていることを話して、「あぁなるほど、あなたはそんな風に考えてるんだねぇ」と言ってくれたらそれでいい。でも、「多様性」という言葉が強い世の中では、それでは「不十分」だというような風潮がどこかある。だから、「分かる!」とか「全然気にしてないよ」みたいな反応をしなければ「間違いだ」というような、僕からすればどこか「捻れた」みたいな状態になっているように思えてしまう。

だからそういう世の中に生きていると、ますます「『普通』から外れた部分」について他人に話しにくくなる。だから、同じような感覚を持っている人を見つけたり出会ったりすることも難しくなるのだ。

言葉を選ばずに酷い言い方をするなら、すでに「多様性」という言葉は「ファッション化」してしまっていて、「ファッション化した『多様性』」がそこかしこに流通しているみたいな感じがしている。そしてその「ファッション化した『多様性』」はむしろ、「『普通』から外れた部分を持つ人」にとっては「害悪」でしかないのである。

一番大事なことは、作中で桐生夏月も佐々木佳道も同じようなことを言っていたが、「この地球の中に、自分が存在していてもいいんだ」という感覚を、すべての人が抱けることだろう。これは、「誰かの輪の中に入れて下さい」みたいなことでは全然ない。別に、一人でいたっていいのだ。「自分が地球に存在していてもいいんだ」と思えるのであれば、別に一人でもいい。むしろ、「理解できないのならほっといてほしい」とさえ思う。

桐生夏月がある場面で、「うっさい」と小声で呟く場面がある。そしてここである人物が彼女に、こんな言葉を投げかけるのだ。

『一人でいるから可哀想だと思って気を遣って話しかけてやっとるのに、なにそれ。あんた、うちのこと妬んどるんじゃろ。っていうか、気を遣わせるのもハラスメント違う?』

あぁ、ホント「うっさい」なと思う。こういう人こそが、まさに「多様性」という言葉をゴリゴリに誤解して、「ファッション化した『多様性』」にしてしまっている張本人なのだ。

ホントに、「多様性」という言葉から、「理解」や「受け入れ」という概念が除かれてくれないかなと思う。今のこの「多様性を尊重する」という流れはそのまま継続した上で、「理解」や「受け入れ」が除かれたら、「『普通』から外れた部分を持つ人」は大分生きやすくなるんじゃないかなと思う。

僕はそんな風に思ってるんだけど、どうなんだろう?

まあもちろん、桐生夏月は正直にこんな告白もしている。

『大晦日とか正月って、人生の通知表みたいだね。誰にも親にも踏み込まれないように生きてきたくせに、こういう時はちゃんと寂しくなったりするんだ。』

まあ、これも分かる。ほとんどの場合、「『理解』や『受け入れ』なんか要らない」と本当にそう思っているのだけど、たまにそうは思えない瞬間もやってくるのだ。本当の本当の本当は、「一人でいたい」なんて思ってるわけじゃない。でも、佐々木佳道が言っていたみたいに、「もう一回頑張ってみようと思ったけど、やっぱり人間とは付き合えなかった」みたいなことになるし、その度にまた「やっぱり一人でいいや」と思うことの繰り返し、という感じだ。まあ、それはもうしょうがないと思って諦めるしかないんだろうなと思ってはいるけど。

さて、きっとこの『正欲』を観た人の中には、「全然意味が分からなかった」「何こいつらキモ」みたいな感じる人もいると思う。まあ、そういう感覚になること自体は問題ないし、あくまでも作品はフィクションだから、どういう感想があってもいい。全然違う文脈で出てくる話だとは言え、作中のある人物も、「あっちゃいけない感情なんてこの世に無いから」と言っていて、それはまさにその通りなのだ。

ただ、『正欲』に対する感想はともかくとして、日常のリアルの生活の中では、「言う必要のない『否定』を表明しなくていい」という振る舞いが、もう少し当たり前になってもいいように思う。「否定的な感情を抱くな」と主張することは、ある意味で「逆差別」みたいなところもあるだろうし、全然そんなつもりはないのだけど、「否定的な感情を抱いても、言う必要がなければ言うな」という主張ぐらいはしてもいいだろうと思う。

さて一方で、『正欲』を観た人には、「共感は出来なかったけど理解したい」「自分の身近にもいるかもしれないから、受け入れていきたい」みたいに感じる人もいると思う。それはもちろんポジティブな感情だし、それが良いことだと思って言っていると思うので否定したくはない。

ただやはり、既に書いた通り、「理解」や「受け入れ」を殊更に強調する必要はないと感じてしまう。

この文章の冒頭の方でも書いたが、僕は桐生夏月や佐々木佳道と「分かりやすい共通点」などない。正直、彼らが持っている「ある指向」は僕には全然理解できないし、理解しようとも思わないし、受け入れなくてもいいと思っている。単に「否定しない」ということだけで、僕は彼らと同じ土俵に乗ることが出来るはずだと思っているのだ。

「『普通』から外れた部分」が、「法律」や「倫理」に抵触するようなものであれば、何らかのルールに則って処罰なり処理がされなければならない。しかしそうではないのなら、とにかく否定さえしないでくれたらいい。「『普通』から外れた部分を持つ人」全員が僕と同じような感覚だとは思わないが、大きくは外してないんじゃないかと思っている。

僕は、そういう世の中に生きたいなと思う。こんな言い方をすると「勝手に気持ちを想像するな」と言われるかもしれないが、そういう世の中の方が、いわゆる「マジョリティ」の人たちも楽なんじゃないかな。たぶん今の世の中は、「『理解しないこと』『受け入れないこと』が『否定した』と受け取られてしまう」からこそ「過剰さ」が目立つのだと思う。理解しなくても受け入れなくても、それは決して「否定」ではない、というコンセンサスを、社会がもっと早く獲得してくれたらいいのにと願っている。

冒頭でも書いたけど、ホントに、地球上に住むすべての人に『正欲』を観てほしい。そうすれば、マイノリティもマジョリティも、どっちにもメリットがあるんじゃないかと、本気でそう思っている。

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