僕の「魔法の秋」はいつだろうか。小説『ドラゴンラージャ』をプレゼンする。

はじめに

イ・ヨンド作のファンタージ―小説『ドラゴンラージャ』は、日本ではあまり知られていないと思う。同時期に怪物的大ヒットをした『ハリー・ポッター』シリーズの陰に隠れてしまったうえ、『デルトラクエスト』や『ダレン・シャン』といったファンタジー作品群の間に埋もれた印象がある。
それくらい、愛読していたという人に出会えない作品だ。

「ドラゴンラージャ」とは、作中では「ドラゴンと人間の間に立つ存在」。ドラゴンラージャをめぐって作中世界が大きく揺らぐ出来事を、主人公の17歳の男の子フチの一人称視点から描き出すファンタジー小説。
フチはとても口が回る。同じ村に住む知識人のカールから仕込まれた多岐にわたる知識と父譲りのユーモアで、読者に『ドラゴンラージャ』の世界を見せてくれる。

小説『ドラゴンラージャ』の良さと面白さを説明するためには、「魔法の秋」「ドラゴンラージャ」「ヘルタント」という三つのフレーズ+ストーリー全体の面白さをテーマとするのが良いと思う。
いまから独断と偏見に基づき、ユピネルとヘルカネス両方に祝福された僕が『ドラゴンラージャ』の良さの話をしていく。どうぞお付き合いください。


魔法の秋

あなたの「魔法の秋」はいつだっただろうか。すでに終わってしまったかもしれないし、これから迎えるのかもしれない。
自分に「魔法の秋」が来たことを認識できた人は、大きなことを成し遂げられる。

秋になると「〇〇の秋」というフレーズを見かけたり思い浮かべる方も多いだろう。食欲の秋、スポーツの秋、睡眠の秋。
しかし小説『ドラゴンラージャ』の読者は皆、「魔法の秋」と答えるだろう。
それだけ、作品内で大きな意味を持つフレーズだから。

作中での「秋」とは、終わりを象徴する「冬」の直前でもっとも生命が輝く季節とされている。
車のエンジンも故障寸前がいちばん性能を発揮するし、マラソン中も体力切れ寸前がいちばん体が動く。
作中での伝説の人物、建国の王「ルトエリノ大王」は、自分が魔法の秋に迷い込んだときに大魔法使い「ハンドレイク」と出会い、国を創り上げる。

剣と魔法とモンスターの世界において「魔法の秋」とは作中の人物にとっては神秘的でありながらも実感を伴った概念として存在している。

現実を生きる僕らにとっても似たようなことはあるだろう。人生のターニングポイントはそのときはわかったりわからなかったりするし、後になってから「ああ、あの時の決断が大きかったんだ」と思い返すこともある。

言ってしまえば、この作品は主人公フチの迷い込んだ「魔法の秋」を描いたストーリーになる。見方によっては運命に振り回されているようにもみえるが、これは読者の受け取り方次第だろう。ぜひ、フチの「魔法の秋」をご自分の目で確認してみてほしい。


ドラゴンラージャ

この作品の良さのうち、特徴的なものは「人間とはなにかを浮かび上がらせる」という点である。


タイトルの「ドラゴンラージャ」とは何か。
「ドラゴン」は言わずと知れたファンタジー生物の帝王。うろこに覆われた体、蛇のような体、大きな羽根、口から吐き出すブレス攻撃など、普遍的な要素が思い浮かぶだろう。
「ラージャ」とは、「王」みたいな意味のサンスクリット語が元ネタだと思われる。
ネーミングとは裏腹に、「ドラゴンラージャ」が持つ力は「ドラゴンと人間の間に立つ」ということのみ。

人間とは、どういう存在だろうか。


こんな命題で思考を巡らせた経験がある人のほうがマイノリティだとは思う。道行く人々がふとしたときに「人間とは~」と思考するような世の中は明るくないような気がする。僕もしょっちゅう自分の人生について考えこんで憂鬱になっているが、自分からこんなことを思考した覚えはない。

『ドラゴンラージャ』の世界では、様々な称号や種族との交流を経て「人間」とはなにかを我々に見せてくれる。オーガ、トロール、ヴァンパイア、ワイバーン、エルフやドワーフ、そしてドラゴン。
ただ「人間の敵」として出てくるのではなく、「異なる価値観を持った存在」として現れる。

異なる価値観と向かい合った時、そこには哲学が生まれる。
野球選手とサッカー選手が向かい合った時、共通する考え方と異なる考え方が生まれるのは当然のことだと思う。当たり前だ。

ファンタジー作品の共通認識として、「トロール」と表記するだけで人間の敵と認識していい存在は非常に都合がいい。
そういう前提がある上で、それだけで済ませるのではなくモンスターや異種族が持っている考え方や価値観を描き出す『ドラゴンラージャ』は、ありとあらゆる哲学を僕たちに提示してくれる。

「ドラゴンと人間」「エルフと人間」「ドワーフと人間」。
人間と比べてドラゴンは偉大でエルフは美しくドワーフは強い。
あくまでファンタジーの世界のなかでの関係値から作られる価値観を、フィクションの小説として僕たちは読む。
しかしそれを現実に当てはめて考えることができる。

わかりやすい例えでいうと、環境問題。
自然環境は人間が破壊している。人間は自然を守りましょうね、未来の人間のために。
百億万回言われてきた言説だが、これを『ドラゴンラージャ』を読んだあとで考えるとこうなる。

人間が地面に立てば穴を掘る。
人間が森に立てば土地を切り拓く。
人間が川に来ればダムをつくる。
人間が自然環境を見れば資源をあつめる。
自然環境は人間によって強烈に人間化されてしまう。

ざっくり言えばこれくらい解像度がかわる。
(僕はドラゴンラージャ内の哲学や神学を完璧に理解しているわけではないが、大きく外れた例というわけでもないと思う)
人間という存在について考えるきっかけをくれるのだ。
人間とは何か、いちど考えてみてほしい。

ヘルタント

フチの出身は「ヘルタント」という片田舎。面倒な権力争いもなく、人格者の領主が民を納め、村人たちものんびりと生きているが、時折信じられないほどモンスターが襲撃してきて人が死ぬ村だ。

ここで育った人は、一種の開き直りを手に入れる。
フチによって「ヘルタント式くそ度胸」とネーミングされ、フチやカール、サンソンの3人がしょっちゅう発揮する。
死が近すぎるために生まれた、開き直りのようなくそ度胸(このくそ度胸は概念的なものであり郷土への帰属意識から生まれたものではないため、フチは時折ヘルタント出身でない人物にも当てはめる場合がある)。これが本当に見ていて痛快なのだ。

作中、強烈な心配事が発生したとき、通常の感性を持ったキャラクターがそわそわしているとき、ヘルタント男児が「メシにしよう!」と揚々と食事を摂るシーンがある。カールが「向こうからやってくることを、あらかじめ心配する必要はない」と解説するのだが、個人的に非常に刺さった。
心配性なタチでそわそわすることが非常に多いのだが、ヘルタント式くそ度胸を思い出すと「ま、来るものは来るしなるようになる」と少しだけ僕も開き直れる。

戦いになるとフチは「死んでみよう!」と叫んで剣を抜く。その理由を知った時、魂を震わせずにはいられない。

ストーリー全体の面白さ

『ドラゴンラージャ』は全12巻だが、登場人物がすさまじく多いというわけではない。作者の超絶技巧により、登場人物よりも大きな世界の広がりを感じられるだろう……みたいなことを書こうと思っていたが、やめた。
もうね、ここには何も書きたくない。本当はこの記事も一切なにも書きたくない。何も知らないで『ドラゴンラージャ』を手に取って、読んでほしい。
死んで生まれ変わったとして、この本が家にあって、小学生高学年くらいで自然と手に取って読めるような家に生まれられたらどれほど幸せだろう。
間違いなく読んだ瞬間から人生が変わるし、学校の掃除の時間に箒で「ロウソク攪拌!」とかやって怒られるに違いないんだ。

まとめ

自分の中にないものをくれたのがこの『ドラゴンラージャ』という作品だった。

フィクションのストーリーの面白さなんて大前提でしかない。大事なのは「面白い」からさらに何を受け取れるかだと思う。
僕はドラゴンラージャから「小麦粉を水で溶いたものに牛乳や卵をいれられると美味しいパンケーキがつくれる」ということを学んだ。
ぜひ何かを学び取ってほしい。僕のようにアカデミックに生きるでもなくスポーツに生きるでもない、ライトな人生エンジョイ勢にとっては間違いなく人生の糧になるはず。

作中で何度も出てくるフレーズで、「私は単数ではない」という超絶激かっこよセリフがある。読了後、このセリフを言う機会を疑い続ける人生になってしまった。
日本で完結してすでに17年が経とうとしている。フチと同い年だ。紙の本で手に入れるのは厳しいだろう。だが、時代とは前に進むもの。
なんと(過去にも販売して終了していたがふたたび!)電子書籍でも購入し読めるようになっている。

ぜひウエストグレードの果てから、大いなるドラゴンラージャの世界を楽しんでほしい。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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