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【『鬼滅の刃』ネタバレ注意】 竈門炭治郎と煉獄杏寿郎(改)

鬼滅の刃は当初、私の周りではファッション性、キャラクター性がどちらかといえば注目されがちで、そこまで真剣に見ようとはしていなかった(実際コロナ禍がなければ観ていなかったのかもしれない)。しかし、娘がはまったのをきっかけに、鬼滅の刃のアニメ版を一気に見てから、既刊を全巻注文。無限列車の映画も観に行った。この物語は、登場人物の誰かに自分を投影し、誰もが「私の物語」として読めるのが人気の秘密かなと思う。さらに、「私たちの物語」として読めるというところが、この物語の面白いところだ。

竈門炭治郎の人柄

主人公の炭治郎は鬼に家族を殺され、唯一、生き残った妹、禰豆子も鬼に変えられてしまった。禰豆子は他の鬼と違い、人間を食べないし襲わない。禰豆子をもとに戻すため、鬼を倒す組織、鬼殺隊の一員となる。炭治郎は、主人公でありながら普通の少年だ。「実は伝説の剣士の末裔で、何かをきっかけにいきなり天才的な力を爆発的に発揮する」みたいな物語ではない(そういうキャラクターは別にいる)。持ち前の優しさと賢さを武器に、地道な努力や仲間との助け合いで成長していく。その過程がとても丁寧に描かれている。戦いの物語でありながら、全編に通底するのは炭治郎の優しさである。炭治郎は泣いている子どもを上手にあやすし、同期におかずを取られてもにこにこしている。印象的なのは、小説の原稿が散らばった部屋の中で鬼と戦いながら、原稿用紙を意識的に「踏まない」という場面だ(後でわかるのだが、この小説の原稿は、鬼が人間だった時に書いたものである)。

炭治郎の「母性と父性」

炭治郎の優しさや気遣いはなんだか「お母さん」のようなのだ。死にゆく鬼は炭治郎に母親らしき人の面影を見るし、鬼殺隊の同期は炭治郎をおふくろとあだ名する。こういうヒーローは今までにいなかったのではないだろうか。炭治郎の母性的な優しさは、関わる人を変えていく。そのもとはどこにあるのだろう。母性というのは、子のありのままを受容するもので、人間を信頼する土台となる。父性はルールや厳しさで、社会とのつながりを築く。どちらも人格形成に必要なものである。炭治郎の父は病弱で、家族が鬼に殺された時点ですでに故人である。お金を稼ぐ能力は低かったと思われるが、家族の尊敬を集めていた。「人はその能力に関わらずそこにいるだけでいい」、これが炭治郎の人格の核になっているように思う。一方で父が「強い男」ではなかった炭治郎は父性を欠いているように見える。厳しさや強さを教えるのは剣術の師、鱗滝さんである。鱗滝さんは当初炭治郎を見て「この子は優しすぎてダメだ」と思う。炭治郎の優しさがネガティブに捉えられる数少ない場面だ。それでも、鱗滝さんの厳しい指導を素直に受け入れ、地道な努力で乗り越えた炭治郎は、最終選別に合格し、鬼殺隊に入ることになる。

母親たちが炭次郎に見る希望

炭次郎はいつの間にかいろいろな登場人物を味方につける不思議な力をもっている。それは、彼の現実に対する向き合い方に深く関係しているように感じる。たとえば6巻第49「機能回復訓練・前編」において、訓練を投げ出してしまう善逸と伊之助と違い、炭次郎は淡々と訓練を続ける。その姿を見た蝶屋敷の娘たちは、炭次郎をつい応援し、いろいろなアドバイスを送る。このような場面は多々見られる。一方で、鬼や一部の柱には疎まれることもある。「むかつく」「きにくわねえ」など、腹を立たせることもしばしばである。このような、炭次郎の姿は世間の多くの母親の支持を呼んでいるように思う。母親たちはどこかで自分の子どもたちが炭次郎のようになってほしいと考えているのではないだろうか。生きることに前向きで弱者の気持ちがわかり、一方で強者へのあこがれがあり、家族思いで人間思いでやさしい。鬼へも同情する優しさがある一方で、向上心が強く、目標の遂行のためには努力を厭わない。また、炭次郎のキャラクターは少し昔の少年漫画のイメージとも異なる。少年の無邪気な好奇心や友情、強さへのあこがれを前面に出していた90年代のキャラクター像とは異なり、炭次郎はいわゆる「気遣い」のできるキャラクターである。男性的というより、女性的ともいえるかもしれない。これが、本来ならグロテスクな描写が多い「鬼滅の刃」がここまで人気がある(アニメ版の第一話の残酷さにもかかわらず多くの小学生、そして幼児までもが観ているようだ。これは母親フィルターを見事に通過した道徳的な作品であると考えざるを得ない。アニメ版の主題歌である『紅蓮華』はほぼみんな歌える)理由のように思う。

炭治郎の精神分析的考察

ユングやフロイトの心理学では、男性性は支配的、切断的性質、女性性は共感性や共存性を表している。また、河合隼雄の分析によれば、西洋人と日本人の精神構造の差異にもこのような構造が見られるように思う。特に、河合隼雄は、日本人の心には「中空の構造」があるといった。明治維新期に、日本文化と全く異なる西洋文化を取り入れることができた(歴史的にそういった傾向があるかもしれない)のは、中空の構造が大きく影響しているように思う。鬼滅の刃に照らし合わせてみると、炭次郎にはこのような中空の構造がうまくいかされているように思う。一つの世界観で語るのではなく、登場人物の一人一人の物語性を大切にし、それらを対立の構造ではなく、併存させることを優先させているように思う。一方で人間性と行為は明確に切り離して考える(つまり流されない)傾向もある。例えば、「君の血気術はすごかった」「人を殺したことはゆるさない」(3巻25話『己を鼓舞せよ』)というセリフには、鬼の人間性(血気術)と行為(殺したこと)をきっぱり分けて考える炭次郎の考え方が見て取れる。また、7巻53話「君は」では、表が出るまで小銭を投げ続けるつもりだったエピソードの中で「人は心が原動力だから」「心はどこまでも強くなれる」というセリフが印象的である。河合隼雄が言ったように中空の構造をもつ日本人の弱点は自我が弱いことであるが、炭次郎はその弱点を克服し、よりよい生き方を常に求める姿勢を示しているように見える。自分の意志で判断し、まだ見ぬ世界に足を踏み入れる勇気をもっている。これは、炭次郎自身が育ってきた温かい家庭環境にも影響を受けているのではないかと思う(前述のように、決して体が強くなかった父が家族の中でとても大事にされていること、そのような家庭で第一子として親の愛を一身に受けたことと、深くかかわっているように思う。炭治郎の父親と炭治郎の物語についても所々かたられるため、母性性と父性性に関する考察はまた別稿でもう少し深く行いたい)。

炭治郎とマルクスガブリエル

このような人間的姿勢はドイツの哲学者マルクス・ガブリエルに見て取れる。彼は新実在論を提唱し、資本主義の新たな在り方を批判を恐れることなく語り続けている。新実在論は、一つ一つの物語を大切にする多元的な姿勢をもつ炭次郎の考え方にも通じるように思う。新実在論は、あくまでメタなレベルで一つ一つの物語を見る。物語自体に取り込まれることなく、世界を一つの物語(~主義)で見ることなく、自分や他の人間のみならず、鬼の物語も大切にし、一方で倫理的に中立であること、そしてそのことを伝えることの重要性を、炭次郎のキャラクターは伝えているように思う。

煉獄杏寿郎、竈門炭治郎と猗窩座との関係は、マルクスガブリエルとホモデウスとの関係に似ている

また、この物語で重要な「日の呼吸」(炭治郎の父とも関係が深い)のルーツをたどる段階で登場する炎柱、煉獄杏寿郎のエピソードも秀逸である。彼は、鬼と対峙した際、永遠の命、強さと引き換えに、人であることを捨て鬼になることを上弦の参・猗窩座から迫られる。しかし、杏寿郎は、それをきっぱりと否定する。「素晴らしき才能を持った者が醜く衰えてゆく」「耐えられない 死んでくれ 杏寿郎 若くつよいまま」と言う上弦の参の鬼、猗窩座に対し、杏寿郎は、「老いることも死ぬことも人間という儚い生き物の美しさだ」「老いるからこそ、死ぬからこそ堪らなく愛おしく尊いのだ」「強さというものは肉体に対してのみ使う言葉ではない」と反論する。猗窩座は、ユヴァル・ノヴァ・ハラリの「ホモデウス」になりたいのだ。そして一方で、ガブリエルはこの「ホモデウス」を強く批判している。私たちの人間性(ヒューマニティ)は、そもそも、死を意識するからこそ成立する。その事を強いメッセージで伝えるこのシーンは、とても印象深い。

杏樹郎と道教とガブリエル

 中国の道教では、存在の概念を「道」「器」「花」などの言葉で表すことがある。「道」は人間性を探求する私たちの姿をあらわしている。また、「花」も、種から茎葉を伸ばし、花を咲かせ散っていくという一連のプロセスを表している。ガブリエルの言う普遍性は、どうもこのプロセスのことを指しているようだ。「全体主義の克服」(マルクスガブリエル、中島隆博著)において、ガブリエルは老子の翻訳書を手掛けた王弼について述べているが、王弼は、「谷神は死なず、これを玄牝という。」という老子の言葉を「谷神は谷の中央にあり、無谷である。それは、影も形もなく逆らうことも相違することもなく、低い位置にあって動かず、静かさを守って衰えない。」という注釈をつけている。王弼にとって、存在とは、固定的な普遍的概念ではなく、不定性やプロセスであると、ガブリエルは考えていて、これに同意している。シェリング研究者であるガブリエルは、「ここでいう「無谷」がシェリングの「無底」である」「特定の谷に物が存在してはいけない」と解釈している。
 私たち人間も特定の谷にいるわけではなく、常に不定性の中にいる。そのことを忘れてはいけないし、それに逆らおうとすることこそ、私たちを「鬼化」することなのかもしれない。もし鬼が存在するのだとしたら、それは私たちの中にある。そのことを炭次郎は知っているからこそ、鬼にも同情し、その物語を大事にするのではないか。炭治郎や煉獄杏寿郎の強さは、無底(日本的に言えば諸行無常ということであろうか)と向き合って生きているところにある。

追記

上記したように、元来私たち日本人は無底と縁が深い。古事記や平家物語、日本仏教にその一端が見て取れる。そして最近では斎藤環が指摘するような「マイルドヤンキー」に、その特徴が見て取れる。精神科医の斎藤環曰く、「世の中は、1割はおたくと九割のヤンキーでできている」。そう考えると、鬼滅の刃分析に、この二つの視点は不可欠である。個人的には炭治郎は、ニュータイプヤンキー(あるいはニュータイプおたく、あるいはヤンキーとおたくのハイブリッド?)への微かな光に見えるが、その辺りもまた別稿で詳しく論じたい。




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