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「テキストを読む」ということ

物語文と説明文

私は以前、学校教育で物語を扱うことに懐疑的でした。それは、物語では客観的な知を共有することが難しいと思ったからです。子どもが論理的に文章を読む力がどんどん弱くなっている中で、物語文を説明文と同様に扱うのはナンセンスだと思っていました。新井紀子氏が指摘するように、文章をきちんと読むということはAIにはとても難しい。人間が文章を正確に「読む」ことはこれからの時代を生きる子どもたちによってとても大切な力のように思いました(基本的には、このことには今も同意しています)。

物語を共有するということ

他方、最近、私は物語の面白さというものを感じることが多くなりました。大きなきっかけは河合隼雄の神話分析に出会ったことです。氏は日本神話(特に古事記)や、仏教的説話、民話などの分析により、日本人の精神構造が西洋人のものと大きく異なることを示唆しています。物語を読むことは、ある人々の集団が考え方や生き方を共有することだと気づかされたのです。

西洋と東洋の物語

氏によると、西洋人は、ユダヤ教(と、派生としてのキリスト教)の影響を大きく受けているようです。ユダヤの民は砂漠の民であり、生き延びるためにラクダを飼いならさなければならず、「対象を支配する」という精神が必要でした。そのことから、西洋では、客観と主観をきっぱりと分け、自然を支配するという思想が多く生まれています。一方で、日本人(東洋人?)は、豊かな自然に恵まれ、その自然を生かして生活するスタイルが一般的でした。しかし、自然には災害がつきもので、そのような環境に適応していく必要もあります。豊かな自然と多くの災厄とともに共存するという生活様式が、日本人の精神を育んできました。そのような精神構造が典型的に表れるのが「物語」です。西洋の物語では、ある状況を乗り越えよりよい状況へ進んでいく、直線的な世界観が描かれる一方、東洋の物語は、出来事が巡り巡って元に戻る、円環的な世界観が描かれることが多いです。また、古事記のように、2項対立的な図式においても、その2項を緩衝するような第3者が登場することがあります(古事記におけるアマテラス、スサノオ、ツクヨミがその典型で、ツクヨミがスサノオとアマテラスを緩衝する役割をになっているようです。これらの話は氏の『中空構造日本の深層』に詳しいです)

物語の読み方

物語には人物が登場します。それらの人物はそれら自身単独で存在するわけではありません。お互いの関係性を包括した形で、登場人物をみんな合わせて一つの心のありようを表しており、それは心の中の葛藤でもあります。また、意識と無意識の関係で現れてくることもしばしばです。たとえば、時間泥棒モモでは、モモと とベッポとジジの関係が意識を表す一方、モモとマイスターホラ、カシオペイヤの関係は無意識を表していて、物語の中で、彼らとのエピソードは非現実的に描かれています。さらに風と共に去りぬにおいてスカーレット、メラニー、アシュリー、レットは時や場所、その時々の出来事で、共感関係にあったり、対立関係にあり、意識に対する影を表しているように見えたり、ユングのタイプ論の4タイプのそれぞれの対応して見えたりします(余談ですが、これらの話はNHK『100分で名著』の『時間どろぼうモモ』『風と共に去りぬ』を見て書いてます。どちらも面白いです。NHKオンデマンドにはいると見られます)

学校教育と物語の精神

私たちは学校で多くの物語に触れます。また、図書館でもたくさんの本に触れます。なぜこれほどまでに学校で物語を読むのでしょうか。一つは、近代国家のイデオロギーとして物語が学校に持ち込まれた可能性が考えられます。少なくとも、終戦までの富国強兵政策においては、このイデオロギーに合うような形で物語が持ち込まれていた可能性は否定できないでしょう。しかし、戦後の教育において物語はどのような位置を占めているのでしょうか。たとえば、国語の教科書でずっとよみつづけられている「ごんぎつね」や「スイミー」など、日本近代児童文学の傑作(?)は、子どもたちに何を伝えたいのでしょうか。それを知るためには、どうやらこれらの物語を科学的なリアリティではなく、ファンタジーのリアリティ(あるいは、神話的リアリティ、精神分析的リアリティ)として読む必要がありそうです。また、道徳の教科書で未だに登場する「きんのおの」や「けんかしたやま」にも、その必要があると思います。

ファンタジーや神話にこそリアリズムが潜んでいることも

要するに、ファンタジーや神話は、現実的ではない(自然科学的に)と言われるが、その一方で人間の内面や思想が練りこまれ、私たちのこころの世界のリアリティーを表しているという意味で、とても意義深いものなのです。しかし、「ファンタジーや神話に見られる思想はイデオロギカルである」と考えもよく見られます。しかし私はその考えに批判を試みたいと考えています。わたしたちは、個人の内面を物語として練りこみ、読み手にその思想を刷り込ませていくというプロセスを知ってます。(例えば、聖書や古事記、ハムラビ法典にみられるような宗教社会、ナショナリズムの起源など)しかし、思想が練りこまれているからと言ってそれがかならずしもイデオロギカルであるということは言えません。むしろ、そこに投影されるこころの世界はリアリティーがあり、宗教や国家に都合がよいように作りこまれているとしても、必ずほころびというものがあります。一方、個人の思想を練りこんでいく場合は、その思想自体がイデオロギカルかどうかが問題なのであり、思想が物語に練りこまれていること自体は問題となりえません。そもそも、一定の偏りがない思想など存在しないし、すべてを包括する世界観も存在しない(これは、マルクスガブリエル的な見解)からです。その物語の中にある種の中立性があること(多くの意味の場に立っていること)が大事なのであり、その意味で「時間どろうぼうモモ」は決してイデオロギカルであるとは言えないと、私は考えています(そこを多くの批評家は読み違えているとら感じている)。イデオロギーとは特定の世界観(たとえば右派とか左派など包括できないものを排除しがちなもの)がすべてを包括するという考える思想です。『時間どろぼうモモ』では、モモと灰色の男たちが決して対立構造にあるのではなく、物語そのものが個人ないし、社会に内包できるような見方ができます。そしてこの物語はテキスト上の物語で完結しているのではなく、あとがきであるように、常に私たちが抱えている倫理とダークサイドの動的平衡のプロセスの一部分にすぎません。灰色の男たちはまた現れるかもしれないし、そのときはモモを飲み込んでしまうこともありえると思います(その場合も灰色の男たちが永遠にそこに居続けることはない)。このような考え方は老子道徳経に解釈を加えた王弼の「無谷」、そしてドイツのシェリングの「無底」にも通じるように思います。常にすでに同じ場所に居続ける実在など存在しません。私たちは、そんな動的プロセスの中で人間性を希求し続ける存在なのです。その意味で、『時間どろぼうモモ』にはリアリズムがあるし、決してイデオロギカルではないと考えます。(そして、このような読み方はおそらく『鬼滅の刃』でもできる!これはまだ今後記していきます。)

物語を読む意味

以上のように、物語というのは、多くの場合作者、ならびに多くの人の心の現れです。だから多くの人々に共有されうるのです。それゆえに、ある種の合理性があります。しかし、その内容を読み解く方法は決して科学的なものではありません。人間の心の合理性は、その人の生きてきた出来事に多く影響を受けています(たとえば、ある人物が受けたトラウマに対し、どのように向き合うかが、物語そのものとなる)。よって、私たちが物語をテキストとして用いる場合大切なことは、そこに人間として普遍的なものが存在するかどうかを吟味することです。そこにイデオロギカルなものが混入していないか、できるだけ慎重に読み取る必要があります。また、イデオロギカルな読み方をしないことも大切です。

物語読解の評価

さて、学校における物語読解の評価は、このように考えるといかにすべきでしょうか。指導と評価には果たして意味があるのでしょうか。そもそも定量評価できない心の世界の読み取りを、数値的に評価するのはかなり無理があるように思います(主語や指示語の表すものを読み取るのであれば、一意的に答えが決まりやすいが、物語の意味をどう読み取るのかは、数値的には評価しづらいのではないか。だからといって無意味だとは全く思わなくなったが)。子どもの学習と教師の役割から考えると、教師と子どもが対話するプロセスこそが指導であり評価であり、これこそが、本当の指導と評価の一体化であり、そう考えると逆説的に、指導と評価という言葉を使うこと自体がナンセンスなのかもしれないと思います(切っても切れないものを無理に切ってしまった結果、指導も評価も意味がなくなってしまった…)。ちょっと極端な考えかもしれませんが、今後、指導と評価については更なる検討(というかもともと何のためにしているのか)をする必要がありそうです。

アクティブブックダイアログという方法

ここで、この問題を乗り越えるひとつの方法として、アクティブダイアログという手法を挙げてみます。この手法では、テキストを分担して読み、それぞれのまとめを発表し、気になった部分に対して問いを立てて対話するというものです。この手法は対話のプロセスを重視した方法で、問い合うことでお互いの考えを知ったり、深めあったりすることができます。ある意味では、指導も評価もお互いが行っていると言え、テキストを共有するというプロセスにはとても合っているように思います。ただし、まとめる際の方法が、テキストの良さを損なう可能性があり、まとめ方に工夫が課題です。引用とまとめを使い分けてテキストの要素と、テキスト自体の良さ両方を取り出すようなまとめの仕方が必要であるように思います。また、原文も参照しながらゆっくりと対話していく必要があります。今後、この手法がよりよい形に変わっていくとよいなと思うし、私自身もそうなるよう、挑戦したいと思います。


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