見出し画像

異文化はめんどくさい?:異文化適応における【ストレス】について

海外に出かけますと、仕事の仕方はもちろん、意見の表し方、感情の表し方、上司や部下、同僚との接し方で日本と全く異なる場面に遭遇することがよくあります。

例えば、海外ではいろんな規模で人脈構築のためのパーティーが開催されることがあります。大きなイベントなどの後に、参加者が集ってお酒やおつまみを楽しむ場が設けられることもあります。

そのような場は新しい出会いが発生するところです。周囲の外国人を見ていると、あっちに行ったり、こっちに行ったりと自己アピールに余念がないように見えます。

ここで自分の取り組んでいる仕事、これまでの自分の実績や関心などをアピールできれば、うまくいけば次の仕事につながる関係が作れるかもしれません。

しかし、それがわかっていても、全く知らない人に対して堂々と、自信をもって、なおかつ嫌らしくない程度の厚かましさをもって自分をアピールできるかというと、

私はそんなこと、できません

私は他人の話を聞く方がむしろ心地よく感じます。またコミュニケーションでは傾聴することが大事だという価値観も持っています。

加えて、自分をいかにも「オレ、デキる人間」なんて風にアピールすることにはものすごい抵抗を感じます。むしろ謙遜してしまって、「いやいや、私なんか大したことありませんから」という言動が自然に出てしまいます。


では、そのように話すよりも聞く方が心地よくて、謙虚な自分を見せている方が楽だからと、会場の隅っこで、誰かが話しかけて質問してくれるのを待っていればいいかというと、そうではありません。

積極的な自己主張、自己アピールが期待される環境では、他人の話に耳を傾けるだけでは自分は存在しないのも同じになってしまうからです。そこでは他人に何ら印象を与えられず、評価されるチャンスもなくなってしまいます。


ヨルダンでは、上司に向かって部下が声を大にして自己主張をすることが普通に受け入れられています。思っていることをその場で発言しないと、それは「意見がない者」「チームに貢献しない者」として上司からも周囲からも評価してもらえません。

ならばと、私もヨルダンのとある組織のトップの人間や年配の人に向かって、その人と全く逆の意見を面と向かって主張できるかというと、

私はそんなこと、できません

上司や年配の方に面と向かって自分の意見を主張するなんて、かえって自分の評価を貶めてしまうじゃないかとまず危惧してしまいます。

また、組織内で波風を立てるような発言をすることで、周りに迷惑をかけてしまうのではないか?などと無意識のうちに上司や年配の方に反論することにブレーキをかけてしまうのです。

そんなことはしたくない。
そんなこと私にはできない。

でも、やらなければ周囲に理解されない、
認めてもらえない、
評価されない、
信頼されない・・・、

あぁ、困った、

あぁ、どうしよ・・・

これが私が感じる異文化環境でのストレスです。

異文化に関する人の話を聞いていますと、

「アメリカでは、こんなときはこんなふうにコミュニケーションをします」

「フランスではこんな風です」

と言われることがよくあります。

ならば、私がアメリカに行ったりフランスに行った場合、そのアメリカやフランスのやり方に合わせる、つまり、相手の行動やコミュニケーションの仕方をコピぺするように、相手がふるまうのと同じようにこちらも振舞わなければならないのか?と思ってしまいます。


異文化環境でつい感じてしまう【ストレス】というのは、4つのパターンに分けられるようです。

1.「本来の自分」を偽ること

過去の投稿でも書いていますが、時間にルーズなヨルダン人に対して「遅刻や締め切りを守らない」からと、そのたびにキレていると身がもちません。

それに、時間にルーズな相手にいつも怒ってばかりいると、遅刻や締め切りを守らないことに寛容な環境ではかえってこちらの「器の小ささ」だけが目立ってしまいます。

だからといって、遅刻とかスケジュールを守らない相手に対して騒がず、咎めず、

「あ、いいよいいよ~」
「しょうがないなあ、もう~」

なんて愛想笑いをするのも疲れるものです。

周囲に迷惑をかけないという意味でも、また自分の責任感、プロ意識を周囲に示すという意味でも時間やスケジュールを厳守することが大事だと考えているのに、それを時間にルーズな人に対しはっきり言うのではなく、なんとなく流してしまっている。。。

このように、相手の文化に合わせようとする意識が強すぎて「本来の自分」とはかけ離れた言動をとってしまうというストレスがあります。


画像1


2.自分の能力との格闘

上に示した例でいえば、

「ある程度自分をアピールしないといけないし、自己主張をがんばらないといけない」

ということもわかっているのですが、

そんなこと、日本でやったことがないし、
これまでの人生でもそんなこと経験してない、

相手に嫌がられない程度に、うまく自己アピールしたり自己主張する・・・しかもそれを英語や外国語でやるなんてこと、

私にはできっこない!

というストレスのことです。


画像3


3.相手に嫌われてしまうのでは?という懸念

見知らぬ人に自己アピールしたり、はっきりと「NO」と言ったり、自分の意見を堂々と主張するぞ!と覚悟は決めたとはいえ・・・、

「そんなことしたら相手に嫌われるんじゃないか?」

「そんなことしたら周囲に疎ましく思われるんじゃないか?」

という懸念が残ります。

一般的に日本でそのように自己主張や自己アピールが強すぎると「胡散臭い」目で見てしまうこともあります。

いくら自己主張や自己アピールが一般的な文化にいるといっても、その感覚が残っていると自己主張、自己アピールが必要な場面でもついつい周囲の目や感情を気にしてしまって、そのように振舞うことを控えてしまうというものです。


画像2


4.「なんで私がそんなことをしないといけないのか?」という憤り

海外にいる日本人の間でまれに見受けられることですが、海外駐在している日本企業の日本人は、それなりの権限や職位を与えられていることが多いです。

また途上国で援助機関で働く人の間でも、自分が「先進国から来た人間」だからと現地の人に対しエラソーに振舞っている人がいます。

いつしか必要以上に

私はエライ

と考えてしまう人も多く、いくら海外の現場といえど

「現地のスタッフは、オレに従うべきだ」

と考えている人がいるのです。

また海外とはいえ日本法人なのだから、そこで働く現地人スタッフは日本のやり方に従うべきで、現地スタッフのご機嫌を取る必要なんかないし、現地の事情にこちらが合わせることなんかない、

なんでこっちが相手に合わせないといけないの?

という心理になるのです。


画像4


多様性が大事と言われる世の中で、自分と異なる言動を見せる人と付き合っていくのは避けて通れないものかもしれません。

しかし、そこはわかっちゃいるけど、上に記したようにメンドクサイこともあるのです。そしてメンドクサイという心理の中身を表しているのが上の4つのストレスなのでしょう。

ただ、異文化に適応するとか、外国人とうまくやっていくというのは、自己犠牲とか忍耐、我慢するしか方法がないのか?というと、そうではないと思います。

相手の仕事の仕方やコミュニケーションの仕方にこちらが妥協し、打算的にやっていくしかないのか?というと、これも違うと思います。

私は今ではヨルダンでの仕事にも、周りとの付き合いにおいても基本的に楽しくやってますが、それは何も自分を常に押し殺してやってきただけの結果ではありません。

まずひとつは、ヨルダン人ならヨルダン人の言動のウラにある「彼らなりの論理」みたいなものが見え、頭の中だけではなく自分の中でもそれが消化できるようになり、共感を抱けるようになってきたからだろう、と思ってます。

そうなると、少なくとも上に記した「本来の自分」にウソをつく必要がなくなることを実感しています。相手に共感できるということは、自分の価値観のオプションが増えるということだからです。

そうはいっても私はまだまだ全然修行が足りず、海外で出会う人たちの自己アピールは良くも悪くも凄まじいと思うことがよくありますが、私はこの自己アピールについては未だに苦手意識しかありません。

人のことを褒めてアピールしてあげるのは自分も気持ちがよくなるので問題ないのですが、自分のことを褒めるような話はどうもやりにくくって仕方がありません。

お腹も少し出始め、かつて

「ラグビーのスクラムで押しつぶされたような顔」

と揶揄されたほど美男子とは対極の顔のくせに、似合いもしないブランドの服を得意気に着ているようなマヌケなイメージがどうしても抜けないのです。

このようにヨルダンでも異文化ゆえについてしまう「ため息」はたくさんありますが、同時に、日本のモノサシで見るとハチャメチャなヨルダン人を見ている面白さもあります。

いつまでここにいられるのかわかりませんが、もうしばらく彼らとの異文化コミュニケーションというものを味わっていきたいと考える今日この頃です。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

(参考文献)
Molinsky, A. (2013). Global Dexterity. Harvard Business Review Press.