神様の原稿用紙

 くもり空の下で裸足になって、波打ち際に立ち、一歩踏み出そうとしたときでした。紙が何枚も飛んできたんです。舞って、舞って、潮に落ちて。色が、形が、変わっていきます。

 灰色の水がしゃぶっていたのは、原稿用紙でした。赤い格子が、暗い水面を淡く彩って。捕らわれていた黒い文字が、じんわりとにじんで。溶けていきます。腰を曲げ、足首に絡まった一枚を拾い上げたら、水に噛みつかれて。破れて、ちぎれて。白波に呑まれていきました。

 顔を上げ、風上へと目をやれば、流木に男の人が腰かけていました。鉛筆でしょうか、青白い手にはなにかが握られていて。背中を丸めて、うつむいています。もさもさした髪が、潮風で震えていました。

 海から出て、スカートで両手を拭い、砂の絡んだ原稿用紙へと右手を伸ばせば、指頭を、足裏を、砂浜がくわえてきて。指の形の染みが、紙の端に薄く浮かびました。紙上には、細かな文字がびっしり。そっと目を落とせば、心理描写が続いていて。

 私のことが書いてある。

 手が震えました。海に溶けてしまいたい。そう思っていた自分のことが、確かに綴られていたんです。

 男の人に近寄って、耳に声を垂らしたら、浮き出た背骨がびくりと震えて。仰向けば、私の影が、その小さな瞳にもたれかかって。重たそうに、目を細めていました。茂ったまゆが、互いを支えるように、寄り合って。

 黙って原稿用紙を差し出せば、その目玉が、赤い枠と私の顔を、交互についばんで。男の人は、黙って首を振りました。腕を下げれば、原稿用紙がスカートに擦れて。さらりさらりと、散っていく音。なにもいわず、そっと隣に腰かければ、男の人は勢いよく立ち上がって。そうして、助走をつけて、持っていた鉛筆を海に向かって投げました。ちょうどそのとき、波音が激しく響いて。指から原稿用紙が逃げ出して。灰色の空へと消えました。

「小説を書いていらっしゃるんですか」

 独り言のようにつぶやけば、足元のリュックから、男の人は一冊の文庫本を取り出して。そっと差し出してきました。受け取れば、薄青い清らかな表紙に、『救い』というタイトルが沈んでいて。水瀬(みなせ)透(とおる)。それが作者の名前でした。目でつまんだら、簡単につぶれてしまいそうなほど、やわらかくて。

 男の人は私に背を向けて、地べたにあぐらをかいて。砂を掘り起こし始めました。薄い色同士が、さらさらとぶつかる音。耳を澄ませながら、文庫を開いて。目をゆっくり、這わせました。

 書かれていたのは、若い女性の独白でした。淡々とした色彩で。そうして、そこにもやっぱり、私の内面が描かれてありました。苦しくてどうしようもないこの気持ちが、上から下へと、右から左へと、とろとろ流れていくんです。

 紙の色が、濃く深くなっていきます。周囲を染め上げていく暗色に、字が溶けていって。見えにくい。それでも、ページをめくり続けました。指が止まらなかったんです。

 読み終えたとき、海辺は薄暮に抱かれていました。男の人は、砂の穴と山の横に、仰向けで寝転がっていて。肩をちょいちょいと人差し指でつついたら、閉じられていたまぶたが勢いよく開いて。瞳に、昼の名残が染みていきます。淡く淡く、きらめくまなこ。

「読み終わりましたか」

 初めて口を開いたその人の声は、ひどくしゃがれていて。うなずいて、本を甘く抱けば、男の人は薄く微笑んで。

「よかったら差し上げますよ。不要なものですから」
「あなたは」

 目を逸らした自分の声もまた、かすれていました。

「あなたはこれを書いて、救われましたか」

 返事はありませんでした。そっと視線を戻したら、その人は目を見開いていて。前髪が震えています。埋もれたその指の先から、ざらざらと、砂色の染みた音がして。噛まれた唇。閉じられたまぶた。目尻から、暗い透明が一条、滴って。

 男の人はなにもいわずに上体を起こし、立ち上がって。リュックを拾い上げ、そうして去っていきました。残された文庫本の作者名はもう、夜に消えていました。

 家に帰って、水瀬透と検索してみたら、SNSにたどり着いて。以前、『神様』という小説を書いたらしく、一部のファンは本人のことを、神様と呼んでいました。志賀直哉という名前が、頭の隅でたゆたいました。

 彼のアカウントをフォローしている人たちの多くは、彼の作品を熱心に読んでいる読者の多くは、青少年でした。

 その日を境に、私は海へいかなくなりました。その代わりに、買ってきた小説の世界に体を浸して。読んでいると、心が少し、ひんやりして。安らぎました。水瀬透。水瀬透。私はあの日出会った男の人の言葉を、この平たい胸で、毎日のように抱きました。

 そうして、数ヶ月は経ったでしょうか。水瀬透が亡くなったと、ある出版社がホームページで知らせました。自殺だったそうです。詳細は伏せられていましたが、海に飛び込んだと、地元の新聞が報じて。SNSにも、その話題がたくさん流れて。

 あの日の海辺に再び向かえば、めずらしく人が数人いました。みんな、若い人たちで。海に向かって、エリカを放っています。あのときとは違って、日の光を吸っている水面。白が、紫が、ピンクが、陽光のかけらとともに、海水の破片といっしょに、辺りに飛び散って、散らばって。エリカは、『神様』という作品の語り手が、大好きだった花でした。

 集まっている人たちの視界に入らないよう、すすり泣く声に触れないよう、砂浜の端をゆっくり歩き、あの流木に腰かけて。あの人が掘った穴は、もう残ってはいませんでした。山も消えていて。背中を丸めたら、胸がひざにくっついて。目を擦りました。擦って、擦って、あの人のように砂の上にぺたりと座り、そうして、穴があった場所を両手で掘りました。指にまとわりついてくる砂粒。あのひとはいったい、どんな気持ちで砂をすくっていたんだろう。どうして、あのとき。

 あの人のことを考えていたら、指先がなにかに触れました。掘り出してみれば、チャックのついたビニール製の袋で。原稿用紙が数枚、折りたたまれていました。取り出して、開いてみれば、細かい字。あの人のものだと、すぐに分かりました。

『あの日出逢ったあなたへ』というタイトルが、一行目に書かれてありました。



 あなたがこれを見つけることはないでしょう。仮に見つけることができたとしたら。そのとき僕は死んでいるでしょう。死ぬことができたんでしょう。同時に、あなたは僕のことを、覚えていてくれたことになりますね。

 小説を書いているのかというあの日の問いに、今、お答えします。あなたが思った通り、確かに僕は、小説を書いています。そして、たくさんの人から、新作を求められています。

 十代のころから書いてきました。新人賞をもらってからは、それこそ、執筆執筆の毎日で。今だと、一日の大半を創作に割いています。何時間も何時間も、じっとパソコンに向かっているんです。集中が切れれば、原稿用紙を見つめたり、タブレットで綴ったり。書き方を変える。そうでもしないと、手が動かないんです。今はもう、気分を変えないと、だめなんです。連続して何時間も書くなんて、今の僕には。

 ずっと、自分のためだけに書いてきました。書いていたはずでした。新人賞へ応募した小説も、自分自身に向けて創ったんです。受賞後第一作も、二作目だって。僕はただ、自分の読みたいもので、読みたい言葉で、白を埋めていただけなんです。

 そうしたら、人は僕を評価した。出版社に促されて、初めてサイン会をしたとき、手を握ってきた人たちは、口をそろえて言いました。あなたの言葉に救われたと。あなたの言葉が必要ですと。あなたの言葉が大好きですと。

 ある読者は、SNSで僕にこう言いました。水瀬さんの書くものに、いつも救われていると。別の読者は言いました。水瀬先生の小説がなかったら、自分は間違いなく死んでいたと。出版社に届く手紙の五分の二は罵倒ですが、残りはすべて、次回作の催促です。僕の言葉がほしいという、願いです。

 理解できませんでした。自分に向けて綴ったものが、多くの人に求められる、その理由が。新人賞をもらったときでさえ、なぜ評価されたのか、売れると思われたのか、いまいちピンとこなくて。新人賞に送ったのは、作家になりたかったからではありません。誰かに認めてほしかったわけでもありません。自分に向けて言葉を放つだけで生きていけたらいいなと、ぼんやり思ったからです。よくある夢想に、なんとなくまたがっただけなんです。

 いつからでしょう。気づけば僕は、他人のために書くようになっていました。あなたの言葉に救われたと、そう言ってくれた人たちを、意識せずにはいられなくなったんです。その人たちが気に入りそうな言葉ばかり、選ぶようになりました。そうしたら、本はますます、売れました。

 僕の書いたものは、いつの間にか、僕の言葉ではなくなっていました。僕自身を救いたいという気持ちは、願いは、僕の小説からは漂わなくなったんです。僕の作品は、僕にとって、死体でした。

 あなたと出逢ったあの日は、次回作の下書きを、原稿用紙に綴っていました。たまには外で書いてみよう。そうしたら、いい言葉が浮かぶんじゃないか。くすんだ文章が色づくんじゃないか。そう考えて。だけど、臭いだけの紙を見ているのが嫌で、全部放り投げたんです。そうしたら、あなたが目の前に現れました。あなたに本を渡したのは、あなたが裸足だったから。遠くの渚に、靴のようなものが見えたから。

「あなたはこれを書いて、救われましたか」

 そう言われたとき、心が震えました。息ができなくなりました。指に、手に、力が入らなくなって。これまでいくら書いても、僕は僕を救えなかった。新人賞を受賞した作品でさえ、僕を助けてはくれなかった。読み返しても読み返しても、文章は苦痛を和らげてはくれなかった。なのに、あなたのあの一言は。

 あなたの声は、僕を救ってくれた、唯一の言葉でした。

 ずっと、探していたんです。頭を撫でてくれる言葉を。心を抱いてくれる文章を。もういいんだよって、微笑んでくれる一言を。探して、探して、ようやく見つけました。パソコンに向かっていた何百、何千という時間では出逢うことのできなかった言葉に。鉛筆を握っていた何百、何千という時間では出逢うことのできなかった言葉に。何百という本を読んでも、見つけられなかった言葉に。お答えします。『救い』を書いても、僕は救われませんでした。なにを綴っても、だめでした。いくら読んでも、満たされませんでした。

 もう、書く必要はありません。読む必要さえありません。探す理由はなくなりました。やっと見つけたんです。僕の気持ちは、静かにすくい上げられました。これ以上、我慢しなくていい。耐えなくていい。だから、死ぬことにしたんです。

 あなたがあの日、どうしてここにいたのか。僕には分かりません。できるのはただ、想像だけです。暗い暗い推測だけです。

 けれど、あなたがいたおかげで、僕は救われました。あなたに出逢えて、幸福でした。

 さようなら。唯一好きだと思えるこの場所で、好きだと思えたこの場所で、僕は死にます。

 さようなら。

 小説を書いていて、よかった。

                               (了)

読んでいただき、ありがとうございました。