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僕たち非リアは、愛なき人間なのか

非リア。
その響きだけで、後ろめたさを感じてならない。

当方パートナーなき人間である。
「彼女いません」的な発言をすると、よく「愛がないのね」といった発言はされないまでも、そんな表情をされている気がする。気のせいなのだろうか。

たしかに、「非リア」は根暗で何事も行動は単独で、いい意味でも悪い意味でも自立しすぎている協調性なき人間であるイメージは拭えない。

だから我々「非リア」は「愛なき」人間であると周囲から捉えられ、気を遣われて避けられ、さらに愛なき人間と捉えられ、より関わり合いをなくしていく不の現象こと、通称「非リアスパイラル」が存在するのではないだろうか。

これはヘテロセクシュアル(異性愛者)の僕からすれば、同性である男性にはあてはまりにくく、逆に異性である女性を対象に多く当てはまる現象であるように感じる。

よく考えれば僕のInstagramの「親しい友だち」の男女比は9対1である。親しい女性はほんの一握り。異性ほど親しくなれないのは男女の友情は存在しないからなのだろうか。いや、違う。

世のリア充と呼ばれるパートナーを持つ人間における友人関係の男女比は殆ど五分五分である。稀に同性の友人の方が多い人間も存在するのだが、僕みたいに大きな偏りは存在しない。無論、これは偏見であり、僕の周囲の人間にしか当てはまらないことであるため例外は多く存在するだろう。

では、「非リアスパイラル」に陥った僕のような人間が果たして周囲から見られているように「愛なき人間」なのかといえば、それは断じて否である

むしろ非リアこそ「愛」の塊。その理由をこれから説明しよう。

「非リア」とは「非(フィ)リア」である。

「非リア」という響きは、最初に述べたように決して良い響きとはいえない。しかし、留学帰りのリア充の発音を真似て、「非(フィ)リア」と呼んでみよう。するとどうだろうか。

「フィリア」とは……

」「友情」「親愛」を意味するギリシア語。アリストテレスの倫理学において特に強調されるの形式で,共通の価値や目標を核として成立し,法律的制約の介在する必要のない自発的相互的な親愛関係を意味する。

ブリタニカ国際大百科事典

はっはっはっはっはー。

「非(フィ)リア」とは「愛」である。しかも、自発的相互的な親愛関係を意味するという、極めてコミュ強・協調性高き性質を含んでいる模様。

ただ、大学1年生の哲学の講義で学修したのだが、一概に「愛」といってもそれには「エロス(情欲的な愛)」や「アガペー(無償の愛)」といったような種類があるようで、このうち「フィリア」というのは他者に対しての「水平的」な「愛」を意味するようである。

よくフィリアを「友愛」と訳し友人間同士の「愛」とする表現がされるが、僕が卒業した大学の教授からすると、それは違うらしい。まあ、何が違うのか僕にはいまいち分かりませんが、「水平的」であり、「自発的相互的」な性質がある「愛」を「フィリア」と呼ぶのだろう。知らんけど。

つまり僕たち「非リア」、実は愛のある人間であったのだ。非リアだから愛なき人間というレッテルを貼っているリア充諸君、いいですか、僕たち「非(フィ)リア」からすればリア充も非リアも水平的な関係なのです。決してリア充が爆発してほしいなんて思っていません。決っして……

【追記】
大学1年生の諸君はこのエッセイを決してレポートの参考文献にしてはならぬぞ。エロスとフィリアの違いくらいググってないで図書館で調べなさい。


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