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スウェーデンという経験(7話)

本稿は大学生時代の留学経験を基に書いたフィクションです。

7話目は、これまで話していた「彼」の原稿について...

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【人生は幸福と不幸と孤独によって成り立っている。】とその原稿は始まっていた。

 なんだかとても変なかんじがした。 

 というのも、ざっと読んで見たが、日本語のおかしな所なんて、ほとんどどこにもなかったからだ。

【ちょうどビールが麦とホップとプリン体で成り立っているように..。

 つまり、人生と幸福を分けて考えることはできないのだ。だから、人生の目的は「幸福」ではない。幸福とは人生そのものである。

 幸福である時、それは同時に不幸でもあり、また孤独でもあり得ると僕は思う。

「幸せになる」ということを目標に掲げている人の言葉を僕は信用できない。

 それは、耳にする幸福という言葉の多くから、俗っぽい響きしか聞き取れないからかもしれない。その意味する幸福とは数えることができるものなのである。

 一時的で、多様で、かつ物質的なものが幸福と呼ばれる。

 長くは続かない、だからあなたは幸福を大事にしなければならない、と思うのだろう。

 人生における幸福の重要性を疑ってはいない。ただ僕が言いたいのは、幸福そのものは人を救い得ない、ということだ。

 幸福は終わってしまった後では記憶としてしかあなたの中に残らない。

「例えば僕がスウェーデンにいて、外気が凍りつくような冬の夜に、暖炉の前で向かい合って編み物をする美しい女性を見ているとする。

 暖炉の光で手首と顔の白く透けるような肌を仄かなオレンジ色に染めて、彼女の姿は、月明かりも入ってこない部屋で輝く灯のように、際立っていた。

 彼女はクリスマスまでに僕に何か編んでくれるつもりらしく、二本の編み針を器用に交差させて、ぬくそうなものを作っている。もし、孤独を含まない闇というものがあるとしたら、まさに彼女と僕がその時囲まれている闇がそうなのだろう。そういった全ては、言うまでもなく幸福を意味する。しかし、それは『その時の僕』は孤独でも不幸でもなく、幸福であるということにすぎない。僕はいずれ日本に帰らなければならないし、彼女はスウェーデンを離れるわけにはいかない。

彼女と別れて何年かしてから、僕はまたスウェーデンに訪れる。そして、夕食の材料を買いに偶然立ち寄ったスーパーで彼女と再会する。彼女は夫に、小さな子を預けて熱心そうに野菜を見ていた。僕は自分から彼女に声をかけ、本当に久しぶりだったので無事を喜び、早口で近況を報告し合う。最後に彼女はぜひ今からディナーを一緒にしようと言う。でも僕は「スウェーデンにいる間に」と、ディナーパーティの約束だけして、その場は離れる。別れ際、これは良い兆候なのだろうと僕は思う。『またね』と彼女は言う。」

 僕は幸福だった。そして、同時に少し孤独で、あまり恵まれない立場にいた。】

 これは、タツロウ自身の手記ではないか、という気がした。

 最後の数行だけ、ペンを変えたのだろうか、やけに読みにくい。

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