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移ろう香り

季節の変わり目が放つ香りは、私にはいつも色濃く感じられる。

初めて購入した柔軟剤や香水を初めて使用した時のような、意識が夢現から現へとシフトするときのような、そんな感覚をもたらす。

四季よりも、四季の境目を愛してやまない。

私は、四季の境目に訪れる香りが器官を刺激し、そして生まれてくる気持ち・感覚を上手く言葉にできなくて泣きそうになる。泣くことでしか表せないくらいの気持ち・感覚なのだ。

そこに干したての洗濯物からの香りが混ざるとこれまたえも言われぬ気持ち・感覚になり、その香り、体験している感覚、時間、夜の静寂さに陶酔してしまう他なくなる。

しかし、決まって付随してくる想いがある。それは、

「誰かそばにいてほしい」

という想いである。

私の意思でその想いを抑えることは出来ても、
私の意思でその想いが生まれ出てることを止めることは出来ない。


私がこのような体験をしている時、誰かがいてくれる事でなにが満たされるのかはわからない。でも求めてしまう。なにをその誰かに求めているのかもわからない。ただわかることは、そばにいてほしいということ、そしてそれが何にも変え難い安らぎをもたらすということだけである。

誰かと共に、ということになんの力があるのか。私には未だわからない。

この気持ちは小学生の頃から体験し続けている。

大人になるにつれ、周りの人は誰かと時間を共にし始めるようになり、私の誰かを求める気持ちも強くなってきたのではないかと思う。

でも分かってもらいにくいもの、共有しがたいものだと思っているため、話に出したこともさほどなければ、誰からか出てきたこともない。

過去に一度だけである。二十歳過ぎた頃のとき。

そういった感覚の中、互いが溶け合うような時間を他者と過ごしたことがあったのは。

それは当時の恋人であった。

夜、窓を開け、1枚の毛布で互いの身を包み、窓際に2人で並んで座って無言の時間を過ごした。並んで座った窓際からは川が見えた。夜空も比較的広く見え、月も出ていた。

言葉にしなくてもわかりあっていた。ような、

そんな時間。


その体験を再び味わうというのは生きているうちはもう難しいことなのかもしれない。私の中ではそう思うくらいの稀有な体験という認識なのだ。

四季、四季の境目、草花。そういった自然が生み出す香り、匂いなどから自身の内に生まれ出てる感覚の共有が叶う人が今後現れたら、私は戸惑いながらも言葉が見つからないため、運命などという臭い言葉を用いるだろう。


匂い、香りの共有ができるということは、わたしにとって、楽しい、美味しい、などとは次元が異なる水準で深い意味を持つ。


今夜の香りもたまらない。

たまらない。たまらなく耐え難い。

でも止められない。


追記
四季の味わいは螺旋だ。同じようで同じでない。二度と訪れない季節。

洗濯機から出した時よりびしゃびしゃになっている朝の洗濯物たち。



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