泣いた理由
仕事関連のことをいつもより少々盛り込んだ内容となる。
勤務先にて卒業式が行われた。その後、昼食を食べながら、最高学年の先生方の感想スピーチを職員で聞く機会が設けられた。
ある先生のスピーチから、私は静かに泣き出していた。
ぬぐってもぬぐっても、涙の轍に次から次へと涙が続いた。
その場で泣いていたのは私と他2、3名。あまり感動して泣くようなシーンでは無いし、私も感動で泣いた訳では無い。
終わり良ければ全て良し。
これまでの色々を帳消しにできてしまう。
といった言葉が語られ、その風潮も蔓延った。
私は悔しく、そしてその言葉や風潮が悲しかったのだ。
クラスの担任たちが恍惚な表情で語る内容の中に、含まれない子ども達がいることが。
切り捨てられて語られているということが。
私は何も安心していない。
わたしがかかわらせてもらった子供達が、この先、辛くても苦しくても寂しくても、「それでも生きて」いけるだろうかと身を案じていたのもだが、なにより、
手を差し伸べて貰えずに卒業してしまった子どもたちが絶対にいたということ。
自分なりにもまだまだやれたことがあったはず、と猛省していた。自分の未熟さへの憤りとそんな心境でのその場の空気や語りに深く悲しみを覚えたこととで涙が止まらなかった。
中途半端な関わりになってしまった子どもや保護者の方々もいた。まだまだだほんとうに。全員を私ひとりでどうにかできるとは思っていないがどうしても不甲斐なさというのか、そんなことを感じてしまう。
オーダーメイドの支援。
やれることを人よりもちゃんとやる。
ひとりでも支えられるよう、5+1感を鋭く深くしていく。
忘れないよう自戒を込め。
追記
感謝の言葉を複数の子ども、親御さんからいただいた。
私はその感謝に見合うだけのことができていたのだろうか。そう思うと素直に言葉を受け取れない自分がいた。
その一方で、ただひたすらに受け止め受け入れ付き合いその人のペースについていける・見極め制することのできる人が、世の中で稀有な存在であるということを、改めてだが、深く、実感を伴って、理解できた。
教えていただいたという方が正しい。
私は今まで、今はなき先人たちを含め、臨床の知を蓄積してきてくれた方々の教えのもと、それらを頭で理解し、そして体得すべく落としこもうとしてきた。
今回、なぜそれが大切か、言われ続け、書き残され続けてきたのかを、ひとつ知れた気がする。
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