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陽炎の道、14歳の別れ。(前編)

私は、立ちこぎで自転車のペダルを踏みしめていた。


6月23日。
土曜日の教室で、ふいに担任に呼び出された。
休み時間の廊下には何人か生徒がいたけれど、
そんなことに気を配っているような内容ではなかったのだ。

「後藤、落ち着いて聞いてよ。
いま、お家から電話があってね、お母さんが危篤という連絡が来たき、すぐ病院へ行きなさい。」
聞き慣れた声で告げられた言葉の意味がわかるまで、私は担任の目がなぜ赤いのかと不思議に思っていた。

「はい。わかりました。
もう危ないことは、わかっちょったので・・・」

毅然と応えたつもりなのに、瞬時に涙声になっていた。
すぐに机に戻り荷物を始める姿に、その場にいた数人のクラスメイトが気付く。
「どうしたが?」
「もう、帰るが?」
「先生になんか言われた?」

手を止めず、目も合わせられず、私は少し小さな声で言った。
「お母さんが、お母さんが危篤で、早う・・・病院へ行かんといかん・・・」

その緊迫した状況に、友達は叫んだ。
「荷物らぁかまんき!早う行っちゃり!!」

「わかっちゅう!」
言い返すように感情を出してしまった。

多分、顔は泣き顔に近かったのか、もしかしたら予想外に冷静な表情だったのか、もうそれさえもわからない。
しんと静まり返ったその場を、私は大雑把にまとめた鞄を抱え、急いで走り抜けようとした。

至急の報せを告げに来た担任がその場に立ち尽くしている事に気がついて、立ち止まり慌てて無言の礼をすると、母と同じような年齢で私と同じような年齢の娘のいる母親でもある担任は、涙をたたえた瞳で黙ってうなづいた。


自宅まで、全力で走った。息が切れて、苦しさなのか嗚咽なのかわからない声が頭の中をめぐる。
梅雨の晴れ間の太陽は照りつけ、横断歩道を横切る車はいつもと変わらずポツリポツリと流れている。
それが、今はもどかしい。永遠に自分を足止めしているように感じる。

母は待っていてくれるだろうか。私を置いていってしまうの?いや、天が私と母を今にも引き裂こうとしているかもしれない。待ってて。お願い・・・。

そのまま母のいる病院に走ろうかとも思ったが、一旦自宅に戻って自転車に乗っていったほうが絶対に早い。
家人のいない家の玄関にカバンを置くと、自転車に飛び乗る。

道のりは、いつもの慣れた道。
久万川沿いの堤防をまっすぐ真っ直ぐ。
途中で堤防の下道に折れて、橋が近づくと大きく上下にうねる坂になる。


私が小学2年生のころから透析を始めた母は、
手術や症状の悪化のために、何度も入退院を繰り返した。
父の車に乗せられ母のいる病院を往復するうちにその場所を覚え、気付くと自転車に乗って
ひとりで母のもとに来るようになっていた。

初めて自転車で病院に行った日は、父にも兄にも誰にも黙って、一人で病院まで行った。

真っ直ぐ一本道だけど、本当にこの道なのか?もしかしたら、永遠に病院には着かないのではないだろうかと途方に暮れそうになり、心細い思いをしながら自転車を漕いだ。
母が世話になっていた白い建物の病院は、道を挟んだ隣に交通公園があることをしっかりと覚えていた。

その見慣れた景色が見えた時、先ほどまでの不安が嘘のように心躍ったことを覚えている。

おぼろげな記憶をたどって、母の病室まで行くと看護婦さんに先に気付かれた。

「あら?さちさんくのお嬢ちゃんやね。
お父さんは?
もしかして、ひっとり来たが?」

ビクッとした。
しもうた。怒られる。・・・そう思った。

「さちさーん。娘さんが来ちゅうで」

少し遠い部屋の奥から「え?」という
聞き覚えのあるびっくり声が聞こえ、さらに私はビクッとした。

「早う、入りや。
お母さんは、ここにおるきね。」

にこにこ顔の看護婦さんの手招きにつられ、病室を覗き込んだ。

「まぁ!ゆきさんは、一人で来れたかえ!」

怒られると思っていた私はすぐに母の胸に抱かれ、冷たくなった指先を包み込むように温めてもらい、拍子抜けした。

「淋しかったが?
よう来てくれた。
お母さんも淋しかったがで。」

まだ小学低学年で、ようやく自転車の補助輪がとれた私を、まったく叱ることはなかった。

後で父には一応叱られたのだが、交通にだけ気を付けて、ちゃんと周りの大人に出かけることを伝えて出るようにと、注意されただけで済まされた。


あの時の母の驚きと笑顔が、頭の中を過(よ)ぎる。

でも、我に返ると、現実では、その母の危篤の知らせを受けて自転車を走らせているのである。

お母さん、待ちよってよ。
もうすぐ、ゆきが行くき。

母の笑顔が、つい最近の大きな息をしながら昏睡状態になったままの母の寝顔と重なる。

母は5月に入ってから様子がおかしくなっていた。
意味不明の言葉を言うことが多くなり、排泄もままならずオムツの世話が必要になっていた。

それでも、時折、いつもの母に戻る時もあった。
ふいに天使が降り立つように真面(まとも)になるが、次の瞬間には付き添う長兄の手を取り、
「私を殺して。早く楽にして。」と満面にほほ笑むこともあった。

それが母の本意ではなく、母の腎臓や肝臓では飽き足らず脳にまで達した毒素の仕業であったとしても、まだ中学生の自分には受け入れられないあまりにも辛い母の変わりようだった。

母の病状の経過を知っている私たちには、何となくわかっていた。こんな日が来るのは、そう遠くないことだと。
それでも、いちるの望みだけは捨てたくない。

ただ、息をしているだけの母でもいい。
もう記憶さえも無くなっていたっていい。
もう少し、もう少しだけ、私から「お母さん」を奪わんといて・・・・・

病院の玄関前に自転車を乗り捨てると、母の病室のあるフロアに駆け上がる。
長椅子に母の兄弟や親戚が何人か座っているのを見つけると、さらに胸が音を大きく立てた。

「ゆき?ゆきか。
こんなに大きくなって、誰やかわからんところやった。」
「お母さんは、中におるき大丈夫やきね。
入って、声を掛けちゃってくれ。」
駆けつけた私をみて、久しぶりに会う親戚が口々に声をかけてくれるのだが、その笑顔がみるみる涙顔になるのを見て、私は一瞬ホッとしたことを後悔するように慌てて母の部屋のドアを開けた。

病室には父と兄と看護婦さんが母を囲んでいた。

——— え?

ドアを引く音で気付いた兄が、大きな声で、母の耳元に言った。

「おかあちゃん、ゆきが来たで。
よう頑張ったね。
けんど、もうちょっとでえいき、もっと頑張ってくれ・・・」

兄の大きな声は、途中から小さくなり泣き叫ぶような祈りになった。

枕元にかけ寄ると、傍らで父が静かに言った。
「今日、急変したと連絡があって、お医者さんから話をされた。
お母さんは、もう、明日までもつかどうか、わからんと言いゆう。」

母の息があることがわかり、私は全身の力が抜けそうになった。
間に合った。
でも、間に合ったというだけで、私は『すぐ明日まで』という短い宣告を受けたことに、もう一度愕然とした。


明日は、日曜だけど、学校がある。
参観日だ。

そして、参観日の翌日は代休で、私の15歳の誕生日でもある。
母が私をこの世に生み出してくれた日。

母は、私がすぐ傍にいることさえもわからず、ただただ人工呼吸器や点滴やいろんな線に繋がっていることで今この時をどうにか生きている。

参観日の学校という日常のイベントと、目の前の死へと向かう母親との現実の落差に、私は自分を保つのが精いっぱいだった。


後編へ続く

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