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8月の詩

哀愁のないサンバは
まるで美しいだけの女
これはモライスの言葉


1966年のフランス映画『Un homme et une femme ─ 男と女』の挿入歌〈sambaサンバ saravahサラヴァ〉の中で、ピエール・バルーはこう歌いました。

歌詞の中の“モライス”とは、ブラジルの詩人Vinícius De Moraesヴィニシウス・ヂ・モライスのことであり、誰もが知る名曲〈イパネマの娘〉などの作詞のほか、多方面で活躍した芸術家です。

この人なしでボサノヴァが世界中でこれほどのポピュラリティーを得ることは無かったと語られるだけあり、さすがその言葉は、ものごとを通り一遍にはとらえない独特の感性をうかがわせます。


モライスは1959年の映画『Orfeu Negro ─ 黒いオルフェ』でも、原作・脚本のほか、挿入歌〈A Felicidadeフェリシタージ〉の作詞を手がけました。

リオデジャネイロのカーニバルを舞台に、人々の悲喜交々ひきこもごもの運命が交錯するこの音楽劇は、カーニバルの熱狂とその裏側の涙を描き、主人公オルフェの歌う〈A Felicidadeフェリシタージ〉も、何とも物哀しい響きを持ちます。


悲しみに終わりはなく
幸せには終わりがある

幸せとは花びらに落ちる雫
静かに輝き
震えながら揺れた後は
愛の涙の様にこぼれ落ちる


◇◇◇


真夏の強烈な光に対する影を思わせる、さらに静かな文章ならば、太宰治のこんな短編小説があります。


死のうと思つてゐた。ことしの正月、よそから着物を一反もらつた。お年玉としてである。着物の布地は麻であつた。鼠色のこまかい縞目が織りこめられてゐた。これは夏に着る着物であらう。夏まで生きてゐようと思つた。


晩年』に収録された作品〈〉の中のこの文章を、私は一月、そして夏のこの季節に、決まったように思い出します。
容赦ないきつい日差しに晒されつつ、冴えない顔つきで、真新しい麻の薄物を着流しにした主人公を思い描きながら。

ちなみに『晩年』を出版した当時、太宰はまだ27歳という若さであり、その事実もまた、うっすらとほの暗い闇を感じさせます。


◇◇◇


けれども、せっかく陽光があふれているのです。
もう少し明るい方、たとえば海へと向かってみましょう。

距離と時間を超えて旅をする、この青年のように。


きみに逢う以前のぼくに遭いたくて海へのバスに揺られていたり


俳人で細胞生物学者でもある永田和宏さんの初期の作品集、『メビウスの地平』に収録された一首です。

“あう”という言葉に二つの異なる種類の漢字が当てられていることが、この詩を深く読み解く鍵だという気がします。


◇◇◇


海は人が何かを探し求め、内省的になる場所であることを、寺山修司も『半分愛して』という詩で描きました。


半分愛してください
のこりの半分で
だまって海を見ていたいのです

半分愛してください
のこりの半分で
人生を考えてみたいのです


こうして見ると海は探す場所であり、見失う場所、見出す場所だとわかります。
だから人はどんな時も、否応いやおうなく海に引き寄せられるのかもしれません。


◇◇◇


女性飛行家としての草分けでもある作家アン・モロウ・リンドバーグは、激動の人生の一期間を海辺に暮らし、そこでの考察を『海からの贈り物』に綴っています。


地上と、海と、空の美しさは私にとって以前より意味を持ち、私はそれと一つになり、いわば宇宙の中に溶け込んで自分を見失った。それは寺院で大勢の者が歌う讃美歌を聴くのに似ていた。
私たち人間は皆、孤独な島であり、それらが同じ海の中に存在している。


そして、画家のロバート・ワイランドもまた、簡潔に真実の言葉を述べます。

海は心に感動を与え、想像をかき立て、魂に永遠の喜びを授ける。


太陽と海の輝かしい存在感が、一年で最も強まるこの月。
その恵みが、あなたに存分にありますように。

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