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目は口ほどにものを言う?

「あら、お久しぶり!元気だった?」
犬との夕方の散歩中。わざわざ自転車を降りて声かけてくださるマダムにあいさつを返しつつ、頭の中は疑問符でいっぱいです。
多分、知っているかたに違いない。でもこの奥様、誰だっけ?

言い訳をさせてもらうと、まずこちら側はとても見分けやすいのです。大型犬を連れているため覚えてもらいやすいし、屋外を歩く際、私はマスクをつけません。
対するマダムはどうかといえば、帽子にマスク、あご下までのマフラーにロングコート。
失礼ながら、どなたか見分けがつきません。

俳優のブラッド・ピットは〈相貌失認〉〈失顔症〉と呼ばれる障害を持つことを告白しており、この病気は、脳内の右紡錘状回という部位の異常や損傷によって起こります。
他人の顔を識別する能力が著しく低下するため、症状の程度によっては、友人や家族も含め、誰の顔も区別できないケースもあるそうです。

誰かと向かい合った時、自分だけが、その人が誰であり、どういう関係の人なのかがわからない。そんな状況は、想像しただけで過酷です。
ブラッド・ピットも、人間関係における苦労話や、家から出ないよう家族から忠告された、とも語っています。

私はそこまでの困難を抱えていませんが、マスクをした人の顔を見分けることが、おそらく他のかたよりも苦手です。
それにはちょっとした理由もあります。

コロナ禍でマスクの必要性が訴えられた時、比較的すんなりと受け入れたのがアジア圏で、抵抗感を示したのが欧米圏でした。
これには民族的な顔の見分け方の違いも影響します。アジア人は人の目で感情を読み、欧米人は口元で見る。
だから口元が隠れるマスクをつけてもさほどコミュニケーションの妨げにならないアジアに比べ、欧米では困惑の種となったのです。

わかりやすい例ではスポーツの国際大会での、女性アスリートの取材シーンが参考になりそうです。
競技を終え、休む間もなく控えるインタビューに、髪を撫でつけたり上着を羽織る暇はあっても、顔を整える時間はない。だけどメイク崩れが気になる顔や、頬の紅潮を見られたくない。
そんな時に選手たちは、素早く顔を隠せるアイテムを手に取ります。アジアの選手は下半分を隠すマスクを、欧米の選手は上半分を隠すサングラス。
そうすることで、外からの視線を気にすることなく、落ち着いてカメラや記者の前に立てるのです。

ここには、それぞれの文化圏の、人の顔のどの部分に注目するか、という文化が如実に反映されています。
この点はおそらく女性の方が理解しやすいでしょう。どうせマスクをするし、メイクは手抜きでいいや。あらはマスクで隠してしまおう。こんな風に思ったことってありませんか?
この感覚は、ほとんどの欧米の女性には通じません。

日本でサングラスが欧米ほど普及しないのは、瞳の色が一因でもあるでしょうが、この文化的な差異が、とりわけ大きな影響を及ぼしているように感じます。
サングラスをずっとかけている人は何だかあやしい。目が見えないのは信用できない。人に対して失礼だ。そんな感覚を多くの日本人が共通して持っています。

けれども逆に、欧米ではサングラスのかけっぱなしは平気でも、マスクをした相手と対峙するのも、自分がつけるのも落ち着かない、そんな気分が強いといいます。
人の口元を見て感情を判断する欧米の方々には、“目は口ほどにものを言う”という日本のことわざは、まるでぴんと来ないでしょう。

ここまで書いておきながら、何ごとにも例外はあるという例えのように、私はマスクよりサングラスの方がしっくりくる、この文化圏の人間にしては変わり者です。
自分でも理由はわかりませんが、子どもの頃からサングラスが好きでしたし、コロナ禍以前は、強制や義務でもない限り、マスクをした経験がありません。
マスクは自分にとって不自然で仕方がないもので、その違和感は“ウイズコロナ”3年目の今になっても消えません。

そして人の顔の認識方法まで欧米寄りで、マスクをつけた人と向かい合うのも落ち着きません。感情どころか、そのかたの顔立ちまで認識しづらく、今回のように失顔症に近い感覚に陥ることはしょっちゅうです。

失礼極まりないことながら、そのマダムがどなたなのか、結局わからず終いでした。
ただ、マダムの方は、まさか自分が誰だか認識されていないなどとは気づかなかったはず。
このあたりは私も典型的な日本人で、お天気の話を引っ張る会話の術くらいは心得ています。

これは欧米の人にはあり得ないスキルに違いない。そんなことを考えながら、犬との散歩を再開した夕方でした。

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