見出し画像

ミラン・クンデラ─存在の軽さと重さ

今から数年前、私には東欧の芸術に夢中の時期がありました。

なかでもチェコは気になる国で、同年代の友人たちは、チェコといえば
「雑貨、文具、民族衣装、ガラスにボタン、おばあさんもかわいくて最高だよね!」
という感じですが、私はそこに、幾人かの芸術家の名を付け加えたくなります。

アルフォンス・ミュシャカレル・チャペック、フランツ・カフカ、そしてミラン・クンデラ

皆チェコの画家や作家であり、その人たちの作品から、どれだけ多くの楽しみや慰めを得たかしれません。


そして最後に名をあげた作家のミラン・クンデラが、7月11日に死去したというニュースが、世界中で一斉に報道されました。

94歳という年齢と、長きにわたる闘病生活の末でもあり、ともかく静かに冥福を祈ろう、という雰囲気が広がっているのは、救いのひとつに感じられます。


私がクンデラの本を初めて手にしたのはまだ中学生の頃で、それは最も有名なあの作品でした。

存在の耐えられない軽さ

哲学的で謎めいたタイトルに心を奪われ、内容の表面的な部分しか理解できないながら、なんとか終わりまで読み通し、興奮と複雑な感情の中で本を置いたことを覚えています。


この本のタイトルの元になっているのは、作中で主人公トマシュが、田舎娘テレーザから告げられる言葉です。

あなたにとって人生はごく軽いのね。私にはとても重いのに。私、その存在の軽さに耐えられないの

テレーザにこんな言葉を吐かせてしまうほど、トマシュは“軽い”男性であり、どこまでも“重い”テレーザとは別人種です。


そもそも二人は馴れ初めからして噛み合わず、テレーザがトマシュにのめり込むきっかけとなったのも、他意のない愛想笑いと、彼がテーブルの上に本を置いていたこと、の二点だけです。

それだけで、自分の周りにこんな人はいない、彼は特別だと思い込み、彼女は田舎町での暮らしを捨てて、強引にトマシュの家に転がり込みます。

ところがトマシュは女性関係にだらしなく、画家の女性ともつかず離れずの関係を続けているため、テレーザは彼を全く理解できず、苦痛にさいなまれることになるのですが。



私の知人の男性は、この作品について、真剣な顔でもらしました。

「これ、ホラーですよ。軽い気持ちで声をかけたが最後、勝手に家に来て居座られるし、そこからの選択肢は結婚か自殺の二択、挙げ句の果てにお前は軽い奴だってなじられるれるんだから。理不尽すぎて意味がわからない」


その人にとってはトラウマ的な読書体験だったようですが、確かにテレーザの純粋さはあまりに重く、狂気と紙一重の部分があります。

1988年フィリップ・カウフマンが監督した映画版はその辺りがよく描かれ、テレーザが壊れた自動人形さながら、無表情でトマシュの部屋のドアを叩き続ける、というカットを観ると、知人の言い分も理解できる気がします。


この作品には二人の唖然とするような最期も含め、人生における偶然性、軽さと重さのぶつかり合い、数多あまたの哲学的な問い、トマシュと女性たちとの関係性やそこに接近するテレーザなど、息つく間もなくストーリーを展開させる要素に満ちています。

その背景には政治的緊張があり、プラハの春、ソ連侵攻、国外脱出と亡命生活など、“1960年代のチェコ”という特異な時と場所が、現実世界同様に人々を翻弄し、物語を裏で操ります。


実際に、作者のクンデラ自身も国を追われてフランスに定住しており、祖国との関係においては、生涯にわたり難しいものがあったようです。

それでもクンデラにとって亡命は必ずしも悪いものではなく、他の作品中でも、越境は精神的自由や新たな可能性を得ること、新天地への出発でもある、というポジティブな描き方をしています。


人生最後の作品『無意味の祝祭』では、既存の権威や伝統をとことん揶揄やゆし、痛いところを突いて笑いのめす、という無邪気で真剣なおふざけが繰り広げられ、彼がますます通常の社会通念から離れ、本当の軽やかさを手にしていたように思えてなりません。



だからこそ、もしクンデラ本人に聞くことができたなら、決して自身の死を嘆き悲しむことはないのでは、と感じるのです。
死すら生からの華々しい脱出なのだとうそぶくような気さえします。

それは個人的で幸福な幻想ですが、あくまで私はそれを信じ、一愛読者としての敬意をもって、クンデラにお別れを告げたいと思います。


Děkujuvámどうもありがとう,Št’astnou cestu.たのしいたびを

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?