歌わない日本人
夜の静けさを破って響く歌声。
明らかに酔って良い気分の二人組が、デュエットしながら家の前を通り過ぎて行きます。
森鴎外なら“微苦笑”と書くような感情で、私は読んでいた本から目を上げ、その歌声に耳を傾けました。
「日本人はいつも酔っていて欲しい。みんな、酔ってる時は明るくて、遠慮せずよくしゃべって笑ってくれるから」
かつて外国の人から、そんな奇妙な、けれどどこかわかるようなことを言われた覚えがあります。
さらにどうせなら、“しゃべる・笑う”に“歌う”もつけ加えると良いかもしれません。
日本人は、歌わない民族だなと思うからです。
いや、世界に冠たるカラオケがあるでしょう、と反論されそうですが、それは、お金を払い、専用の施設に行かなければ人前で歌うことがない、という事実のあらわれでもあります。
なぜって、酔っていたりふざけている人を別にして、街なかや職場、学校で、歌う人がどれくらいいるでしょうか。
私はどれだけ思い返してみても、長いことそんな人には出会っていない気がします。
公園にいる子どもたちを見ていても、幼稚園や小学校低学年なら、アニメの主題歌や流行りの歌を楽しげに歌っているのに、学年が上がるにつれ、そんな無邪気な姿を見かけることはなくなります。
歌うことを禁止する一神教の世界に生きているのでもない日本人が、なぜ歌わないのか。考えてみると不思議です。
私たちの先祖はそうではなかったようで、江戸末期から明治、大正の日本を訪れた外国人は、見聞録で日本人と歌についてはしばしば語っています。
「日本ではいたる所で歌声を耳にする」
「この人たちのなんと陽気なことか。辛い労働の最中も、彼らは自らを励ますように常に歌を口ずさんでいる」
「日本人にとって農作業に歌はつきものである。歌うことで人々はリズムを合わせる」
そんな記述を何度も読みましたし、昭和になって戦争が歌を奪ったのかというと、軍歌や戦意高揚のために作られた歌あり、戦後の唱歌や歌謡曲ありと、街から歌が消えたわけではありません。
1950年代中頃には〈歌声喫茶〉もでき始め、お茶とともに、歌うこと、そこに集う人との交流を楽しむという文化もありました。
余談ながら、そこで『ペチカ』や『トロイカ』など、ロシア音楽を原語で耳から覚えた。ロシアを旅した際に、これがどれほど役に立ったか。そう語ってくれたおじいさまがいます。
日本人が自分たちの定番曲を自然と口ずさむのに目を見張り、その後は質問責めにされたり、皆で歌ったりと、一気に人との距離が縮まったという素敵なお話でした。
私が訪れたことのあるのは限られた国だけですが、アジアや中東、ヨーロッパのどこでも、人々はあちこちでもっと気軽に歌を口ずさんでいたように思います。
トルコでは空港の通路ですでに異国情緒たっぷりの歌声を聴きましたし、ロンドンでは小路を歩きながら見事にハモる三人組に皆が温かい目線を向けていました。パリの橋ポン・ヌフの上では欄干にもたれて気分良さげに古いシャンソンを口ずさむお年寄りがおり、バンコクのタクシーでは運転手さんがカーラジオに合わせて歌いながら即席のタイミュージック講座を開いてくれました。
それらを懐かしく思い返しながら、日本で同じような光景に出会ったことはないなと思います。
そういえば中国のガイドブックには、日本における〈すべからず〉として〈人前で口笛を吹くこと、歌うこと〉ととあるといいます。
おそらく他人に対する迷惑を気にかけてのことでしょうが、なんとはなしに、あまりに真面目な顔つきをして、常に口を引き結んでいるというのも窮屈だなと思えます。
日本人が、いついかなる理由によって人前で歌わなくなったのか。私は研究者でもないため真相は知るよしもありませんが、皆が昔のようには呑気に鼻歌を歌って暮らすことがなくなっているのは確かです。
日々の生活の中で力の入りすぎに気づいた時は、副交感神経をオンにするために、好きな歌を口ずさんでみる、というのは楽しくて良い方法です。
日々の暮らしのなかに軽やかなリズムを取り入れるため、たまには歌ってみるのはどうでしょう。
下手だから、という遠慮はこの際忘れることとして。
プロの歌手ではないのですから、音程やピッチがずれたって問題なしです。
こんなお誘いかけをするくらいですから、私はもちろん歌っています。
家の中や、自転車に乗りながら、車の中で。犬の散歩中だって公園のはしっこで。
「全ての人の人生にはサウンドトラックがある」
アメリカの作家ジョディ・ピコーが言うように、お気に入りの歌を口ずさんで過ごすのは、なかなか悪くない気がします。
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