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私にとっての読書

「趣味は何?」とか「一人の時は何してるの?」って聞かれた時に、
私は今も「本読んだりとかですかね」と答えると思う。
ちょっと、相手の顔色を伺いながら。

と言うのも、ずいぶん昔、その問いに読書と回答したら、
「そうなんだぁ」とだけ返されて、以降全く話が弾まなかったことがあり、
それが思いの外、堪えた。
以降は、読書と別の趣味らしきを添えることが多々ある。
まぁ、そんな質問も最近はあまり聞かれないけど。

もちろん読書を恥じてるわけじゃなくて、
上記で言ったように単に話題が盛り上がらない(と、感じているから)。
きっと、私にとって読書は、秘密基地みたいなもの。
他人が安易に踏み入ることができない領域に、ある。
それは読書に限らず、人に理解されないだろうなと初めから線を引くような
好きなことって誰しも秘めていると思う。
誰かにとって漫画だったり、映画だったり、食事だったりするだけ。
読書は特別ではない。
私は本を読むからといって他人の気持ちを深く想像できるわけじゃないし、
高校時代の現代文の成績が特別優秀なわけでもない。語彙力も乏しい。
ただの娯楽に過ぎない。

じゃあなぜ、読書するのか。
ただ好きだからと立ち止まって考えたことはなかったけど、
あえていうなら好きなことって、子どもの頃に手にした感動がきっかけじゃないか。
いい思い出レベルじゃなくて、ぐっさりと刺す深い傷に似たそれ。
大人になって傷跡を撫でながら、その衝撃を懐かしんでは、
同じような傷をつけてほしいと探している。

いつからいつまでを子ども時代と呼んでいいのかわからないけど、
一番古い記憶は小学生の頃に教科書にのっていた「きつねのおきゃくさま」。
出会った動物たちを食べてやろうとしたきつねは、その動物たちに
理由もなく信頼されたことに気を良くし、最後は動物たちを守るために戦う。
「ごんぎつね」もそうだ。人間に心を開いてゆくきつね。
イソップ童話では狡賢くて、痛い目をみるキツネは、
日本の物語の中では次第に勇敢さや優しさを知るのに、終わりは辛い。
その切なさと引き換えに大切なものを教えようとしている物語。
ずっと、心に残っている、物語。
大切なものとはなんなのか、教科書に決まった答えはきっとあるけれど、
自分の中の答えを模索して、私は本を開き続けている。
無意識に探し続けている気がする。

できれば努力は報われてほしい。全ての夢が叶えばいい。
でも、実際はそうはいかない。
大人になって読む物語も、そういう話が増えた。
物語の中でも突きつけられる現実に、胸が痛く、痛くなる。
せめて夢を見ていたいから本を閉じて現実逃避をするけれど、
結局続きが気になってまた読み始める。痛くても、共感は心地いい。
読後、たどり着いた先は、どうか素敵なものであってほしい。
願いながら、祈りながら、読む時がある。
少し前だと、西川美和さんの「永い言い訳」今村夏子さんの「星の子」
最近だと、凪良ゆうさんの「汝、星のごとく」がそうだった。
辛かった。
だけど、読後の余韻が、しばらく続いた。
切ない、が引き換えに見せる光が、自分を照らしていた。
それは段々と小さくなるけれど、弱々しい蝋燭の炎のようになっても、
胸に灯り続ける。
それがあれば、吹雪が止まない現実も、はたまたドラマのない退屈な日常も、
生き続けることができると思っている。

その光は、先にも言ったように、私にとっては読書から得ることが多いだけで、
きっと誰かにはもっと違う何かから照らされているのだろう。
心の奥の方に、消えない傷跡があるんだろう。
それが一体どんなことなのか知らなくても、あるというだけで人を好きになれそうだ。

泣きたい時、楽しい時、別の感動と出会った時、胸の炎が揺れる。
光が、古傷をなぞる。
あの小説の一節、歌のBメロ、ドラマのセリフ、映画の場面、
蘇ってまた、きゅっと切なくなってそれが何故か知りたくなる。

たぶん、終わることがない。
その快感に魅せられて、私はまた本を開く。
きっとあなたにとってのそれが、
生きる糧になっているのと同じように。


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