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普通が何かは知っているけれど

生きずらさというのは、普通が何かを知っていることが1つの要因なのではないだろうか。

普通が何かを知っているし、普通である人を演じることも出来るけれど、根本である考え方が普通じゃないから生きずらいということだ。多くの場合、生きずらさを抱えているのは、普通ではない人達であると思う。

そこで今回は、普通と生きづらさの関係を考えていく。


普通とは

そもそも、普通とは何だろうか? 人によって普通は異なるから。そんなものは存在しないと考える人もいるかもしれない。私もその意見には賛成だ。

しかし、実際には普通というものは存在している。それは多くの人が持っている共通認識のことだ。例えば、以下のようなものがある。

  • 友達はたくさんいた方が良い

  • いい大学に入って安定した企業に就職するべきだ

  • 結婚して子供のいる人生が幸せだ

私も20歳くらいになるまでは、疑問は抱きつつも同じような考え方を持っていた。特に、最初に友達は多い方が良いという考え方は、学校教育で刷り込まれている人も多いと思う。「友達100人できるかな♪」という歌詞から、友達をたくさん作ろうと頑張っていた人もいるかもしれない。

人によって価値観は違うから普通は異なる。だが、結局のところ、多数派の意見が普通として存在していることが現実なのだ。

普通を知っていると生きずらい

普通とは多くの人が持っている共通認識のことである。では、なぜそれを知っていることが生きづらさにつながるのだろうか。

普通が良いとされる世の中

一般的に、世の中は普通が良い事とされている。なぜなら、多くの人が持っている認識であるため、一番かは分からないにしても、とりあえず間違いではないと思えるからだ。多数決なんかはいい例である。

また、ルールや規則も普通を前提にして考えられている。例えば、日本では同性婚が法律で認められていない。それは異性を好きになることが普通で、同性を好きになることが普通ではないとされているからだ。

別に誰を好きになろうがその人の勝手だと私は思う。ただ、法律違反は良くない事なので、普通ではないことも良くないという捉え方ができてしまう。

普通が良いとされる世の中で、普通じゃない人がそれを知ってしまっていると、普通に引っ張られてしまうこともある。きっとそれが後ろめたさになり、生きずらさにつながっているのだろう。

Will・Can・Must フレームワークで考える

Will・Can・Must フレームワーク

就活で聞いたことがある人もいるかもしれないが、Will・Can・Must フレームワークというものがある。簡単に説明すると上の画像のように、Will がやりたいこと、Can ができること、Must がやるべきことで、この3つが重なる部分が自分の適性というフレームワークだ。

ここで、普通でないけど普通のふりをして生きている人というのは、Will の領域が重なることは絶対にないと私は思う。なぜなら、やりたいことをやれていないからだ。

能力として持っているからやろうと思えば出来るし、法律のように周りから求められている事でもある。それでも、自分はやりたくない事なのだ。それでは生きずらいに決まっている。

そのため、仕事なら割り切れるかもしれないが、プライベートでWill が制限される普通じゃない人達は、とても生きずらくなると考える。

普通じゃなくてもいいじゃないか

普通を知っていると普通に引っ張られ、自分らしく生きられないことが生きずらさにつながる。ならば、解決策は簡単。普通に引っ張られなければ良いだけだ。もちろん、ルールの範囲内での話になるが、それさえ守れれば何も問題はない。

そもそも、普通でないことは理解されずらいだけであり、何も問題ではないはずである。普通とはあくまで一般的で理解されやすいというだけで、一番良いわけではない。一番に飛びぬけるのは一般ではなく特殊、つまりは普通ではない人の方だ。

ならば、普通かどうかなんて気にしなくていい。自分らしく生きるためにも、少数派として飛びぬければよいのだ。出る杭は打たれるが出過ぎた杭は打たれないとは、きっとこういう事なのだろう。

おわり

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