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嫁の仕事とは何ぞや?嫁姑問題を長年観察して思うことを語りたい。

お正月に義実家への帰省で疲れてしまったお嫁さんはいないだろうか?

今日はそんな人たちへ向けて何か書けないかと思って書いてみた。

私にとって嫁姑問題は母のこと

私は、幼い頃から嫁姑問題に関して母の愚痴の吐口だった。

それは、今も多少続いている。ちなみに、母の義母にあたる祖母は98歳だから困ったものだ。母も老齢なのに、全然解放されていないのである。

母はまた、私の弟のお嫁さんについての苦言を私にポロリしているが、本人や弟に不満を漏らすことは控えていると言っていた。自分が嫁として弱い立場で好き放題に言われてきて、それがあまりに辛くて、せめて弟のお嫁さんには苦労させたくないと言う。

そんなこんなで私はその生涯をかけて母の嫁姑問題と間接的に向き合っていることになる。

私は愚痴を聞く以外に母にしてあげられることはなかった

母に対して何かしてあげたいと常々思っているけども、どうにもしてあげられない。

例えば、母を離婚させて家を与えて私の扶養に入れるなどを提案することもできるかもしれない。しかし、母の望みは父との離別ではなさそうだった。

長年生きてきた人の考えを変えるのは不可能に近いと思う。本人がそう望まなければやはり難しい。

同居していたのはまだ子どもたちが乳幼児のたった5年間なのに、その時のことがトラウマになっており、年に多くて数回しか会わない期間の方が長くても解消することはなかった。両親はここ10年ほど祖母の近くに住んでおり、あれほど悩まされた嫁姑問題を母は自らの人生のフィナーレに向けて抱え込むハメになってしまったことになる。

母が父と別れない限り嫁姑問題は終焉しない。
母は父と別れることを望んでいない。
ならば嫁姑問題は解決しない。
母が選んだ道なら仕方ない。

よって私は母の愚痴を聞くくらいしかできない。

母にかけてあげられる言葉はなんだろう?

長年、母にかける言葉には悩んできた。
「お母さんも大変だよね。そんな風に言うなんておばあちゃんもひどいね、お父さんも頼りないし。」

あたりよく言ってきた。
せめて母に、味方がいるよと知らせたかった。

しかし、長年聞いてきて思うのは、「考えは人それぞれ」と言うことだ。

祖母が見る世界、父が見る世界、母が見る世界は、全部違う。それぞれ、自分が正しいと思っている。

だから、私は母の味方はするけれど、母が正しいとは言ったことがない。母が受け入れられない祖母や父の考えを、母が受け入れられる形に変えることはそもそもできないと思う。

「母が真に嫁姑問題からの解放を願う時には、私が協力する」が私が切れる最上級のカードだ。

母に味方になるとは再三言っているが、最上級のカードは切っていない。もしそうしてしまったら、私の家族に影響が及ぶと思う。ずっと、私が独身でいたらスッと切れたのかもしれない。

嫁姑問題は詰まるところ折り合い

敵視してくる人に好意的に接することができる人間は少ない。拗れてしまう嫁姑問題の構造としては、姑は嫁を敵視し粗探しする。嫁は身構え、姑を嫌厭する。

感情を挟まない説明をするとこうなる。

姑が嫁に求めるものをそもそも嫁は聞かされないか、聞かされても受け入れられない。それにも関わらず、姑は求め続ける。この満たされない相互関係が、対立する構造を強化する。

双方に折り合いがつくかが、肝腎要の問題となる気がする。

お嫁さん側の折り合いの付け方の一例

残念ながら私の子どもたちはまだ結婚しておらず、お姑さん側の折り合いの付け方はわかっていない。

お嫁さん側の折り合いの付け方としては、私の場合、期待に応えられない無能な嫁として白旗をあげ続けるというところに落ち着いている。

何か苦言を呈されれば「そうか、なるほど、そう言う意見ももっともだ」と頷いておいてそれ以上は放置する。というか、私の能力では、望まれることを叶えるのが難しいと思う。

お姑さんの良き話し相手になり、親族が集まれば10人以上に食事を振る舞い、夫を良き旦那にし、子育てを完璧にし、仕事をしても家事も完璧に…できるわけがない。

情けないがまじで一つたりとも無理である。

なお、口ごたえは口が裂けてもできない。

相手は絶対服従の神。会社で言えば上司みたいなものだ。サラリーマンは「上の奴らバカだな」と魔が差した瞬間に、組織的に終わる。

上に歯向かいたければ、下剋上するか退職だ。嫁姑問題に例えると、下剋上は姑が家のことから実質引退し嫁が家を仕切る状態だろうか?私には荷が重すぎて現実的に不可能だ(いずれ、できるようにならないといけないのだろうか?ならば能力がなくてやばすぎる)。その他は、退職(離婚)、許しても夜逃げ(夫婦で絶縁)だ。

無理難題が来れば、「そんなの求めるなんて間違ってる」なんて思わない。「私に能力がなくて(今は)できません」だ。

こちとら嫁生活よりサラリーマン生活が長いので、この考え方はしっくり当てはまりそうな気がしている。男に産まれたら生きやすかったのだろうか、いつもぐるぐるする。

なお、嫁業における私は万年平社員か、クビ寸前のお払い箱入り社員。恥を知らない。

まともな社員を目指すべくプレッシャーを感じるべきだろうか?

私の母は、嫁としての仕事をしつつも、我を失わず闘っていてすごいと思う。そうか、母は、嫁として頑張ってきた実績とプライドがあるから、私のように簡単に自分を捨てていなかったのだなと思う。

過去の考え方の変遷を辿ってみた。今との違いは?

気にしすぎないでバカな嫁を貫くという時期もあった。

しかし、どこか斜に構えているというか、私のほうが正しいところもあるんです、みたいな姿勢になるのが自分としては居心地が悪いところがあった。

「私のこともちょっとは理解してほしい」という気持ちを捨てきれないでいると、誰かにとって正しい世界で、自分の正誤判断をし続けることなる。

それは案外、苦しい気がする。

自分が正しいと思う世界の中に生きるのではなく、みんなそれぞれに正しいみんなの世界にポツンと佇みたい気がしている。

まだ、昨年の冬と夏、私は自分が正しいと思う世界の住人だったのだと思う。

苦労づくめの母に今伝えたいこと

ずっと嫁姑問題の渦中にいる母からすれば私はなんと楽ちんな嫁だろうか。夫と子どものことは一生懸命しているつもりだけど、嫁としては何もしていない。

世代交代の準備はゼロ。
のんきに白旗をあげ続けている場合じゃないのかもしれない。

これからの時代に嫁業ってどんだけ残るのかわからないけど、嫁の仕事っていうのがあるとしたら私じゃあお姑さんも頼りないだろうなと気の毒に思う。

かつて結婚式やお葬式や法事で母の陰であれこれ見聞きしてきたつもりになっていたけど、ただの見物人程度。それだけ私は嫁業のOJTをしていないってとこだ。その点、母は一流だ。家族に密に関わり、姑さんの近くにずっといた。

だからこそ、さまざまな問題に巻き込まれてしまう。それだけ、家族のために尽くしてきたということ。ただただ、お疲れ様としか言えない。

どうか、心身の健康のためのできる限りの手抜きをして、自分を幸せにしてほしい。

そして、私にできることがあれば教えてほしい。

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