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表現の自由

おはようございます。kohです。

私は、いつも私の記事を読んでくださったり
スキをつけていただくと、ありがたい気持ちが
湧いてきます。
だから、なるべくフォローしている方の記事は読みますしフォローしてなくても
スキをくださった方の記事を読みます。

そこには本当に百花繚乱ないろいろな方向、またはベクトルの文章があります。
それぞれにnoterの方が真剣に書かれた文章なのでどれが素晴らしいとは優劣つけ難いです。

それに奥が深く、読んでいるだけで時間があっという間にすぎるnoteの日々です。

やはりそこにあるのは
「表現すること」そのこと自体について
とてもお考えを持たれて意見を述べられる方もいらしゃいます。

それだけ書くという行為に対し
真剣に向かわれているのかな?と思います。

プロセイン(今のドイツ)の天才と言われている詩人ゲーテはとても具体的な人で有名です。
ゲーテは抽象的な行為をよしとしませんでした。
植物の観察にしても、具体的に体を使って
スケッチなどでか観察していたのです。

逆にゲーテの親友シラーは
当時の観念論の大家カントの影響を大いに受けていたとゲーテは嘆いていたそうです。

カントは
イギリス経験論と大陸合理論の対立を
一つにまとめあげた観念論の哲学者です。
一生を独身で通し、毎日の散歩の時間の正確さは市井の人の時計がわりにしてしまう人でした。

ゲーテとは対照的な部分があると私は考えます。
ゲーテは生涯数々の恋愛を経験し
著書である「ウェルテルの悩み」は具体的で
かつ当時の人々に多大な影響を与える
世界文学となりました。

具体論と抽象論どちらも一理ある
概念です。

noteは表現に自由さがあります。
どんな表現でも受け入れる窓口があります。

それでも私は、日々の何気ない日常の描写が好きです。
生活感のある文章にはその人の
素朴な人間性が出ています。
毎日の平凡な日常から文章を紡ぎ出すこと
毎日の手を更新する行為は並の大変さではないと思います。

抽象的な表現は
その生活によるさまざまな破片を一括りに
描きこみます。
その理論は常識的に正しいのです。が、
そこに生の人の生きた感じが表現されているかというと
そうではありません。

noteが続かない方にとても繊細な
日々の感じたことを書く方が多い気がします。
私はそんな日常のかけらが理論の大作に飲み込まれて消えてゆくのがとても悲しくなります。

誰でも初めは自分のことを表現したいから書くのです。
私もそうでした。
それがいつしか観念的な大作となり他を寄せ付けない、小さな日常を押し出したりすることを私たちは行がちではないでしょうか?

現実には格差はあります。
なくすことは不可能です。
だからこそ私はインターネットのような仮想空間が必要になってくる必要が出てくると思います。
表現の避難場所が必要だと強く思います。
大前提として表現の自由は皆、平等です。
大家が書いた文章と平凡な日常を描いた描写
それはどちらも同じ重みがあります。

この大前提である表現の自由を
どんな行為であれ、大義があれ
阻害するのは1noterとして受けいれられません。

どうせ、noteを利用するなら
今日あった何気ない出来事を伝えてくれた方が
例えスキが少なくても
私は読んでよかったと感じます。

それが表現の自由であり
憲法で保障する
公共の福祉に反しない表現の自由ではないでしょうか?

どうも今の不穏な雰囲気とは
人の考えるが故の観念から出るようです。
思いも外に出さずに隠していたら
腐臭してしまわないでしょうか?

人と人の会話や何気ない雑談
これを阻害しないでほしいです。
今の世界に必要なのは「思い」ではなく
「共感できる」ゲーテのような身の軽やかさです。

どうかささやかなnoteの記事が
増えてほしいです。

それが活発な社会を取り戻し
人々に笑顔を取り戻す
人工物(インターネットなど)の使い方だと思います。

長々と述べましたが
日々の何気ない思いを描き続けたいです。

そんな思いを込めて・・・

おわり

2festivalさん素敵なイラストをありがとうございます。

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