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ジョーカー :私たちの正義が試される時

映画鑑賞後に気持ちがぐっと下がる、すぐには表現できない後味の悪さを感じる映画だった。なぜ気持ちがここまで悶々とするのかわからなかったが、どうやらそれは自己嫌悪であったことが数日経ってわかってきた。

ジョーカーがどのように今のジョーカー となりえたのかが描かれているが、貧困、暴力、精神障害と自分の力だけでは抜け切れない環境の悪循環の中で、もがき苦しみ、できる努力はするものの何も報われず踏みにじられ続けるジョーカーの姿は哀れそのものだ。

救いがないのが、ジョーカーの持病である突然笑い出すと言う気持ちの悪い癖である。そのせいか、かわいそうな境遇にいるにもかかわらず誰からも救いの手が施されない。

自分の周りに、もしジョーカー がいたとして、何ができるのだろうかと考えると絶望感でいっぱいになってしまう。

ジョーカー が同じマンションに住む住人とエレベーターで鉢合わせた際に、その住人から向けられたちょっとした会話をきっかけに、その住人に対して恋心をいただき、そして妄想の恋と現実の間の感覚をなくしてしまい、最後には相手の自宅にまで侵入してしまう。

ジョーカー の妄想的で勘違いを起こしてしまう性質を見てしまうと、怖くてなるべく関わらないでおこうとしか思えなくなってしまう。

自分は結局ゴッサムシティーの中にいるような環境にいる人たちに対して何もすることができず、もし周りにいたとしたらなるべく関わらないで逃げ出してしまうだろう。

社会の階層化が進むと大きな分断が生まれ、わかり合うことが難しい者同士が、ますますお互いのことが理解できなくなるし、そして理解できない狂乱の可能性を感じるだけで、なるべく近づかないようにして、悪意なく無意識に分断をする選択肢を生んでしまうのではと考えてしまった。

それこそ、ジョーカー が現代の都市生活者の心を試しているようだ。

ダークナイトで描かれたジョーカーは、超越した悪、悪自体を目的としたヒロインとして描かれていると言われているが、私には正義を高らかに褒め称える一般市民に対して「正義になるのか悪になるのかは、さじ加減しだい。自己の利益を天秤にかけた時にどちらかが重いかによって判断がどうにで変わる。」と、正義を試す悪のように見えた。

ダークナイトでは、ゴッサムシティーを脱出しようと試みた2つの船に爆弾を仕掛け、それぞれの船の乗客に対して、どちらか一方しか生き残れないとジョーカー は言い放ち、相手側の船を爆発するボタンが渡される、正義を試す場面が描かれている。その時はどちらの船の乗客もボタンを押さず正義が勝つストーリーを成立させていた。今回の映画では、現実を生きる私たちに正義のあり方についての問いが突き付けられているようであった。

そして冒頭の感想に戻るが、この映画を観た後、私にはどれだけゴッサムシティーの人に対して手をさし伸ばす勇気があるのかがわからなかった。あの映像を見た後に自分は正義を貫くことができるとは言えなかった。大きな壁を作り、心地の良い中での生活を自分は選び、後は祈るぐらいしかできないのではないか。

ジョーカーに負けた気分になる。そんな屈折した気持ちにさせられてしまった。

観賞後の後味の悪さに悶々とする私とは対照的に、やられっぱなしの負けっぱなしのジョーカー が無敵になっていく段階にすっきりとした後味を覚える人もいるようだ。ジョーカーの視点で彼が遭遇する数々の不幸が丁寧に描かれているため、鑑賞者がジョーカー に感情移入し、最後はスカっとする気持ちになる人がいるのもわからなくもない。と言うよりは、わかってしまうからこそやっぱり自分にとっては不愉快でしかないのかもしれない。

ゴッサムシティーの舞台となっている地域に仕事の関係で何度か行ったことがある。そしてその地域は映画で描かれているような場所であり、マンハッタンまで電車で数十分にもかかわらず荒廃した街だった。会社の同僚からもこの周辺は危険だから外を出歩かない方がいい、夜遅く(20時頃)まで会社に残り仕事をするのは危険だからやめたほうがいいと、いろんな人から注意をされた記憶がある。確かに駅で電車を待っていると、どこからともなくホームレスらしき人が近づいていくるのが日常茶飯事であった。

そこで見た光景がゴッサムシティーの情景と重なり合い、自分にとってはジョーカー は、虚構の話しではなくリアルに既に分断された社会がえぐり出されているように見えてしまう。

ゴッサムシティーにいた時は、身の安全しか考える事はなく、そこにいる人たちに対する想像力を膨らませる事はなかった。さっさとその場所から去り、マンハッタンにある居心地のよいホテルに逃げ帰るのが精一杯だった。

どうやったらジョーカー が生まれる背景に立ち向かっていけるのか、あの時、あの場所にいた自分について考えても答えは簡単には出てこなかった。

ふと、ゴッサムシティーに拠点を置いた会社のCEOの言葉を思い出した。

「マンハッタンに会社を作ることはできた。ただ、あえてこの場所に拠点を選んだのは、税収をこの地に落とすことで地域コミュニティに還元するためなのだ。」

彼はその後、アントレプラナー支援をその土地でも始めた。

その会社に勤めていた当時は、頭では大切なことであると理解しつつも、社員が安心して過ごせない場所に拠点を設けるのはどうだろうかと考えることもあった。

ただ、ジョーカーを見た今ならわかる。彼は自分の力でできる最大限のことをきっちりと社会のために果たしていたのだと。

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