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〜「マン•ボックス」をどう考えるか?〜『男子という闇』を読んで 




はじめに


さて、突然ですが、タイトルの「マン•ボックス」とはなんでしょうか?

「マン・ボックス」とは、「男性はタフであるべきだ」、「男性は一家の大黒柱であるべきだ」といった、社会で広く受け入れられている、伝統的かつ覇権的な男らしいとされる行動や考え方を意味します。

電通総研、「男らしさに関する意識調査」の結果を発表

要は、一般的に言われる「男らしさ」になりますね。そしてこのワードは大抵ネガティブな意味合いで使用されます。具体的にはリベラリズム•男女平等•フェミニズムといった、一般的に“善い”とされる価値観と対立するものとされています。

さらに、"男らしさ"にこだわる男性はメンタルヘルスの問題を抱えやすい、という調査もあるようです。

…ほんとうに、「マン•ボックス」は悪いものなのでしょうか?無くさなければいけないものなのでしょうか?

ここで一冊の本を紹介したいと思います。


アメリカにおける少年への性被害と男らしさ、つまり「マン•ボックス」の関係性について書かれています。また、いかに男の子性加害者にしないか、という観点からも「マン・ボックス」の有害性について書かれています。

著者紹介


著者はエマ・ブラウン。ワシントン・ポスト紙の調査報道記者。ジャーナリストになる前は、ワイオミング州で自然保護官、アラスカ州で中学校の数学教師として勤務。夫と2人の子どもとワシントンDCに在住 (本書より)。

リベラル派の立場を取る大手新聞であるワシントン・ポストの記者である為、書かれている内容も全体的にリベラルに寄ったものであるという印象を受けました。

男女平等、男女の生まれつきの性差の否定、フェミニズムや#Metoo運動の全面的な支持...など。

しかしそれでも、いかに少年が性被害にあっているか、また、性加害者になってしまうかをなるべく客観的な視点から書こうとしている印象も同時に受けました。

まず著者のエマ・ブラウン氏(以下「著者」と称する)ですが二児の母であり、上の子が女の子で下の子が男の子です。本書では随所に、「女の子の母親」としての視点と、「男の子の母親」としての視点が垣間見る事ができた為、その視点ごとに分けて紹介したいと思います。

女の子の母親として

上で書いた通り、#Metoo運動やフェミニズムに著者は全面的に賛同しています。

米国性教育基準では、子どもたちが小学三年生になるまでに、個人的な境界線について理解していることが求められる。性教育者や性暴力の専門家は、子どもたちが健全な性的発達の道を進むために、これが最も重要な事柄の一つであると同意している。すなわち、触られたいかどうかを自分で決める権利があること、他人の自主権を尊重する責任があること、さらには、誰かに触られて不快に感じた場合にはどうすればよいかということも教えることだ。彼らが性的に活発になる、または性的に活発になることを夢見るはるか前から、性的市民権の基本について教えておくべきである。

p.150

著者は自分の娘が幼稚園に通っていた頃に、上記のことを身をもって学んだそうです。娘がある男の子に力強く抱擁され身動きがとれなくなっている場面を目撃しました。後に娘にそのことについて尋ねると、抱きしめられたことで非常に恐怖を感じたことを、著者に伝えたそうです。

著者は娘に対し、あなたの体はあなたのもので、それをどうするかはあなたが決めるのよと伝え、抱きしめられたり、触られたくない場合には、「いやだ」と言っていいのだと伝えました。そして、彼が言うことを聞かない場合は、先生に言いなさいとも教えたそうです。

アジズ・アンサリの性的不正行為疑惑からみる「性的同意」に対する著者の見解

性的同意に関しても、著者は“「いや」は必ずしも一つの方法で伝えられるわけではない”と主張しています。そして、米国のコメディアンで俳優のアジズ・アンサリの性的不正行為疑惑の話を引き合いに出しています。

ここでアジズ・アンサリの騒動を簡単に紹介しましょう。以下は日本のニュースになります。

簡単に説明すると、人気コメディアンのアジズ・アンサリが23歳のフォトグラファーの女性(グレース)と親しくなり、アジズは彼女を自宅に呼びました。そこでしばらくお酒を呑んでから、アジズは彼女にキスをしてオーラルセックスを始め、彼女にも同じようにするよう要求し、彼女もそれに従いました。すると最終的にアジズはセックスを求めてきた為、彼女はそれを拒否。そのままことに及ばずに2人は別れました。彼女はアシズの行為にショックを受け、車の中で泣いたそうです。翌日、アジズに「私は言葉ではないシグナル(拒否)を送ったのに、あなたは無視した。別の女の子がまた車の中で泣かないように言っているのよ」とメッセージを送り、その後この事をネットメディアに告発した、という騒動です。

ちなみに、上のリンク先の日本語の記事を書いたジャーナリストは女性であり、女性に対するセクハラや性暴力に対して断固反対する立場であると表明しつつ、この件に対してはアジズに対して同情的です。

彼女が17歳とかいうならば、もちろん話は別だ。しかし、このデート(本人たちもそう言っている)があった時、彼女は22歳だった。男性とディナーに出かけ、おごってもらって、食事の後、夜も更けた時間にまたその男性の家にのこのこ着いて行くという行為が、相手に何かを期待させるかもしれないと、その歳にしても予測できなかったのだろうか。


と、告発者であるグレースに対してかなり辛辣です。そして、「嫌ならなぜはっきり言葉で伝えないのか」や「これが性加害になるなら女性は有名な男をどんどん告発するでしょう」などのソーシャルメディアに投稿された女性の声を紹介しています。

しかし、著者は告発者であるグレースに直接インタビューをしており、ニュースでは明らかにされていなかった側面を本書において紹介しています。

彼女の証言を要約すると、アジズの行為に対して彼女は明らかに不快感を示している合図を送り続けたそうです。たとえば、彼が自分のペニスに彼女の手をあてがおうとしたときも、彼女はそれを振り払ったし、それでも彼が迫ってきた時はトイレに避難しました。つまり、言葉以外での拒のメッセージを彼に送り続けていたが、アジズはそれを理解していなかった、ということになります。

上で紹介したニュース記事のように、グレースの告発に対しては女性からも多数の反対意見が寄せられました。

グレースはそのことに動揺しました。自分の身に起きたことは、上司にレイプされたと告発する女性たちに起きたこととは違うとは理解していましたが、しかし、アジズの行動は、「下劣」だと世間は認識するだろうという確信はあったそうです。そんな思いとは裏腹に、彼女のもとには、彼女自身が下劣であると書かれたメッセージが殺到しました。男性の行動について彼女が提起したかった問題は、彼女自身の行動に対する批判の嵐でかき消されてしまいました。「あんなに多くの人に『あなたは本当に間違っている』と言われた経験は、今までありませんでした」と彼女は言ったそうです。

グレースの両親でさえ、アジズの誘いがそんなにも気分の悪いものだったなら、なぜ彼女はその不快感を解消するためにもっと行動しなかったのかと困惑したそうです。父親は彼女に「なぜ帰ろうとしなかったの? 」と優しく質問したそうですが、それでも彼女の胸は痛んだそうです。

そしてその騒動の数ヶ月後に、アジズがゴールデングローブ賞を受賞した際に、タイムズアップ[セクハラが容認されていた時代は終わったという意が込められている]のピンバッジを着けていました。それを見たグレースは非常に偽善的な行為と感じ、嫌悪感を覚え、告発することを決意したそうです。

著者はグレースに対して同情的です。批判の中にあった、「嫌ならなぜオーラルセックスをしたのか?立ち去らなかったのか?」という疑問について、「オーラルセックスは、脱出への最も抵抗の少ない手段だった。ただ終わらせたかった。さらに、食事を奢って貰った人の部屋からすぐに立ち去ることは失礼にあたると思った」というグレースの証言を紹介しています。

この項の最初に紹介した、“「いや」は必ずしも一つの方法で伝えられるわけではない”ということを、グレースの言葉を通して再三、読者に訴えます。

アンサリは彼女の発していた信号を見逃していたのではない、と彼女は結論づけた。彼はただそれらを無視しただけなのだ。  グレースが自らの体験談から息子を持つ親に伝えたいことは、息子たちが曖昧な信号に気づくかどうかではなく、それらに注意を払うことを理解しているかどうかを気に留めるべきだということだ。一方、娘を持つ親には、娘たちが性的場面で不快感を感じた際に、礼儀正しくする義務はないと理解することがどれほど重要かを、自身の体験談を通して感じ取ってほしいと彼女は願っている。少女たちは、たとえ「愛想良く」なくても、勇気を出して本当の気持ちを伝えるべきなのだ。

p.213

そして筆者は、「アジズの落ち度は(グレースの心を読める)超能力者でなかったことだ」と皮肉混じりにグレースを批判したニューヨークタイムズのコラムニストに対して、本書で反論します。

彼女はオンタリオ州にあるウィンザー大学の心理学教授であり、何十年にもわたり性暴力を研究してきたシャーリーン・センの言葉を引用します。「彼はただ、普通の人間のように、注意を払うということをすればよかっただけです」とセンはいいます。そして「男性は性的パートナーの気持ちを読み取れないのではない、聞く気がないのです。それは男性が性行為を始めなければならない、また始めたことを達成しなければならないというプレッシャーに駆られているからかもしれない。」と続けます。

著者は性的同意についての自分の見解を次のように述べます。

性的暴行で告発されないように息子たちを守りたいのであれば、我々は「いや」はいやを意味するということ以上に、セックスに対する男女間の考え方の違いに関する古臭い物語を取り壊すという、より困難な作業に取り組まなければいけない。女の子もセックスを楽しむことができるということ、そして男女に関係なく、人は口頭やボディーランゲージで伝えられた「いや」を初めから信じるべきだという明確なメッセージを少年たちに伝える必要がある。それを明確にせず、しつこく言い寄るのは利口なことなのか、気味が悪いことなのかを、息子たちが分からないままの状態で放置すれば、彼らはいずれ他人の境界線を踏み越えてしまうであろう。

p.206

つまり、この騒動で告発者であるグレースに批判が集まったのは、一般的な男性が(そして女性も)男は男らしくあらねばならない、女性をリードしなくてはならない、という「マン・ボックス」を内面化していたからだ、ということを著者は伝えたいようです。

性的同意書についての著者の見解

アジズ・アンサリの事件は息子を持つ親にとって最も不安を抱かせるものであったそうです。著者の観測範囲では、聞かずともこの事件について話し始め、正しい性的同意に基づいて行われた行為の失敗例だと話していました。そして、フェミニスト達からさえ疑問の声が上がったそうです。

女性がはっきりと意思表示をせず、自ら立ち上がらなかったことを男性のせいにしすぎている、と。ピンクのプッシーハット[女性の権利を訴え、トランプ大統領に抗議した団体の象徴]をかぶって行進した進歩主義の母親たちでさえ、女性の主張を信じながらも、息子がアンサリの立場になった場合のことを想像し、これが男性や将来のセックスにとって何を意味するのかと葛藤していた。

p.208

そして、もしセックスをするのであれば相手の女の子に書面で同意を得るように息子に対して助言したという、とある男子学生をもつ母親の例を紹介します。女の子がその場の雰囲気に流されて後で後悔し、親に告白しなくてはならなくなった際に、女の子が同意していなかったと主張する姿が容易に想像できるからだ、と。

その母親とは電話で話したため、表情を読み取ることができず、私は彼女が本気でそう言っているのだろうかと考えながら、しばらく黙り込んだ。確信が持てなかった私は、彼女に尋ねることにした。本気ですか?  本気で息子にセックスの同意を書面で得るべきだと考えているのですか、と。「もし自分が大学に行こうとしている一八歳の少年だったらと考えると、ええ、もちろんそうです」

p.204

著者はこのことについて、子どもを守る親の気持ちとしてある程度は理解できる、と述べます。しかし、色々な意味で「これはあまりにも無茶苦茶で極端である」と続けます。

二人の人間が何に納得し、何をする覚悟があるかについて、いつでも心変わりすることがあり得る場合に、建前上の契約書に署名させることには何の意味もない。息子たちに女性は信用できないと教えることはひねくれているし、残念なことである。また、完全に問題を見誤っているのではないだろうか。男の子が直面している最大の課題は、噓つきな少女たちではなく、大人からの期待値の低さと指導不足なのだ。  セックスやコミュニケーションについてより深く話し合う代わりに、同意に関する決まり文句に頼ったり、話を聞くという責任を少年たちが理解しているかを確認する代わりに、意図が曖昧だったと少女たちを非難することに集中したりすることで、我々は息子たちを守り損ねている。安全で尊重し合える性生活を送るために必要なスキルや情報を彼らに与えないまま、我々は息子たちを危険にさらしているのだ。

pp.204-205

要は、セックス同意書は、少女や女性を信用できない存在だと少年たちに教え込んでしまう可能性がある。それは根本的な解決策にならない、と考えているようです。それよりもセックスやコミニケーションについて、深く話し合うことが大切だというのが著者の主張です。

男の子の母親として

著者は、男の子は単純であるという考えをずっともっていました。それが息子を出産し、男の子の母親になることにより、考えが変わったそうです。

娘たちを守るために、我々は息子たちの育て方を見直さなければならないと私は思い込んでいた。しかし、少年の世界を垣間見た今、彼ら自身のためにも、我々は息子たちの育て方を見直さなければならないのだと分かった。我々は少年たちを導き損ねてきたのだ。そして、その失敗は公衆衛生上の危機へと繫がっている。少年たちは、驚異的なレベルの身体的・性的暴力、上昇し続ける自殺率、あるべき姿に対する厳しい制約、そして多くの羞恥心と恐怖心に直面している。  我々は単純に、少年たちが彼ら自身と、他の少年や男性と、少女や女性と、健全な関係を築くために必要なものを与えることができていないのだ。

p.14

少年たちが従来のジェンダーステレオタイプを受け入れることに対して、利点があることは著者も認めています。国際的な非営利団体プロムンドの調査ではマンボックスの中で生活する男性の方が人生に満足しているという結果が得られたそうです。

ジェンダーステレオタイプを受け入れることには好都合な点がいくつかある。プロムンドの調査によると、マンボックスの中で生活する男性( 38)(すなわち、性欲が強く、同性愛を嫌悪すると主張し、積極的で支配的で自立心を強く持つべきだと考える男性)は、そうでない男性に比べ、総合的に人生に満足していると回答する可能性が有意に高いことが判明した。

p.97

これについて著者は、“世界の期待に合わせる生き方はいろんな意味で快適だからだ”という見解を述べます。

しかし、それと同時にマンボックスに従って生きるべきだと考える少年や男性(特に女性を支配し、優位に立つべきだと考える男性)は、女性に対しセクハラ行為をし、性暴力を加え、交際相手を身体的にあるいは性的に虐待する可能性が高いことが示唆されている、とも述べています。

そしてマンボックスは男性や少年自身を傷つける可能性がある、と続けます。

ちゃんと「男らしく」しなければならないという少年たちが感じるプレッシャーは、明らかに少女たちの健康と安全を損なうものだ。しかし、私が驚いたのは、それは少年にとっても同様に破壊的なものだという証拠があったことだ。プロムンドの調査では、マンボックスの型にはまった男性はそうでない男性と比べて、抑うつ症状を報告する可能性が高く、過去二週間以内に自殺を考えたと報告する可能性が二倍にもなることが判明した。彼らは暴飲暴食をする可能性も高く、交通事故に遭う可能性は二倍から三倍であった。また、身体的ないじめの被害者であったと話す可能性は四倍、身体的ないじめの加害者であったと話す可能性は六倍にまで上った。

p.96

著者は、
・アメリカの男性は、女性よりも凶悪犯罪の被害者になる可能性が高い。
・女性に比べると男性は、自殺する可能性が四倍、他殺される可能性も四倍である。
・米国では男性の平均寿命は五年も短い
などの顕著な男女差を、息子を産むことで知ることができたそうです。

そして著者は、男性を追い詰めている原因はマンボックスであるとして、従来の男らしさからの解放が男性を救う一番の方法だと述べるのです。

男子学生に対する行き過ぎた罰則に対する著者の見解

アメリカでは1980年代から1990年代に、学校での不正行為に対する厳しい罰則(「ゼロトレランス」とも呼ばれる)が流行したことによって、停学率は急上昇しました。また、男子学生による女子学生への性的不正行為(セクハラ)についても厳しくなり、いくつかの事例証拠によると、一部の学校では、性的不正行為を見過ごすことから、最近まで普通と見なされていた行動で男子生徒を厳しく罰するという極端な措置へと移行しているケースもあるようです。

学校での厳しい取り締まりで矢面に立たされているのは男子生徒です。アメリカの学生人口のうち男子生徒が約半数を占めているが、停学処分を受ける生徒の70%近くが男子学生にになるそうです。

著者は性的不正行為を無視することは明らかに問題であるとしながらも、低レベルの違反に対してまで即時に厳しい罰則を与えることは必ずしも解決策とは言えない、と行き過ぎた罰則に疑問を呈します。そして、性的暴行で告発された男子大学生の弁護で最も著名な弁護士の一人であるアンドリュー・ミルテンバーグの言葉を引用します。

クライアントの一人は、ある女の子のことを「あのシャツを着てるときの乳が最高」と書いたメッセージを友人に送ったとして、私立の学校を退学させられた。ミルテンバーグは、自分の娘についてそのようなことを男の子が書いていたらゾッとするであろうと認めた。しかし、長い間大人たちが容認し、それとなく許可さえしてきた一〇代の少年の行動に対し、このような厳しい処罰を与えることにまで納得はできないと彼は言う。
我々は、若者(特に少年)が越えてはいけない一線を理解できるようにするのに時間をかけないまま、何が適切で何が不適切であるかを再定義してしまったと彼は言う。「高校では確実に厳しい取り締まりが行われています」と彼は話した。「それは教えを説く瞬間となり得るのに、多くの高校はそのチャンスを逃しているのだと思います」

pp.183-184

性的暴行で告発された少年や男性の弁護を担当する弁護士からこのようなコメントが出るのは不思議なことでは無いそうですが、著者は性的不正行為の被害者を代表する弁護士からも同じ感想を聞くそうです。

ハラスメントに立ち向かえるように教師を訓練するハーバード大学の心理学者、リチャード・ワイズボードは言います。

「少年が過大に罰せられる場合や、大袈裟なリアクションで少年やその両親がひどくおびえてしまう場合もある。それは本物のセクハラがどういうものかを非常に軽視しており、矮小化してしまう」と。

結局のところ、それではより健全で安全な学校にはなってはいかないのだ、と著者は述べます。

著者は、性暴力を厳しく罰するのか。それとも、罰することなく、性暴力は普通で、容認でき、大したことではないとするのか、という二者択一ではなく、別の解決策を提示します。それが、修復的司法です。

ニュージーランドのマオリ族をはじめ、世界中の先住民族の伝統に根ざした修復的司法は、他人に危害を加えた人物にそのことを認めさせ、互いの関係を修復する方法について合意するものである。それはときに、修復的サークルと呼ばれる場で行われ、被害者と加害者、彼らに近い支援者、そして訓練された進行役が直接顔を合わせる。また、被害者が加害者に伝えたいことを書き、加害者がそれを読むという、手紙を用いた手法で行われる場合もある。

p.193

つまり、被害者と加害者の歩み寄りが何よりも大切だと著者は考えているようです。

少年に対する性的暴行に対する著者の見解

著者は、少年が被害者になることは稀なことで、「児童性的虐待」は大人が子どもを狙ったものだと決めつけていたそうです。しかし、調査を進めていくと全く違う事実が明らかになったそうです。

多くの少年が大人から性的ないたずらを受けているのは事実である。ところが、性的虐待や性的暴行は、子どもから子どもに対し行われている可能性がさらに高いということが強力に示唆されている。一七歳以下の子ども一万三千人を対象としたある調査では、性的被害を受けたと報告した少年のうち四分の三が、加害者に他の子どもを挙げていた。そのうちの半数以上で、加害者は女子であったことが判明した。そして、暴行を受けた少年の多くは、そのことを大人に打ち明けたことがなかった。

pp.32-33

子供から子供への性的暴行は主に学校の運動系部活動(アメフトやバスケットボール、レスリングなど)において行われています。「ブルーミング」という箒などの道具で肛門を犯す行為や、睾丸を握り潰されるなどのほぼ身体的暴行ともいえる行為が、学校の部活内にて行われていることを紹介しています。

これほどの被害がありながら、当事者の少年たちが助けを求めない理由として、男らしさの呪縛がある、と著者は述べます。

女の子が被害に遭った場合、彼女たちは自らの恐怖と向き合おうとする。少年たちは、男であることの意味、すなわち、強くて、傷つきにくく、理性的であることといった、今まで聞かされてきたことと闘わなければならない。そして彼らには、自らの体の不可侵性、当然与えられるべきプライバシーや個人の自主権など、聞いたこともないようなことをうまく活用することなどできないのだ。

p.38

そしてやはり、マンボックスがその呪縛の原因であり、それを打破することが必要だ、という見解を述べるのです。

まとめ

著者の主張を簡潔にまとめると
“マンボックスは女性や少女を抑圧し、男性や少年にとっても健康を損なうものでありるため、取り払うべきである”
になるでしょうか。そして、マンボックスを打ち破る為に、著者は様々な提言をします。


・アメリカの学校では性教育に消極的である為、少年達は性的知識の空白をオンラインポルノが埋めている現状ある。間違った性知識を持たない為にも、幼少期からの性教育の徹底やポルノ無しでの自慰を少年に推奨する。

・従来の男子校の教育では、昔ながらのジェンダーステレオタイプを育んでいる可能性がある為、男子校の変革(従来の男らしさからの脱却についての教育を織り込むなど)をする。

・マンボックスは少年1人の力で取り壊せるものではない。その役割は我々(女性や少女含めて)全員が担っており、特に父親の役割はきわめて重要である。そして、少年同士の絆(男の友情)も大切になってくる。「男の子はなににでもなれる」というメッセージを伝えて少年同士で共有するようにする。

疑問点や気づいたこと

ここで本書を読んで私が感じたことを挙げていきます。

一つ目として、ジェンダーステレオタイプを受け入れることに対しての利点である、「マンボックスの中で生活する男性の方が人生に満足している」という結果について、著者は「世界の期待に合わせる生き方はいろんな意味で快適だからだ」という抽象的な見解しか述べていません。もう少し具体的な見解を聞きたかったですし、調査結果の「人生に満足している」についてもどのように満足しているのかを具体的に知りたかった、というのが正直な感想です。

二つ目です。本書の冒頭においてマンボックスの呪縛から解き放たれた1人の少年を紹介するのですが…

ボストンの裕福な郊外にあるリンカーン =サドベリー・リージョナル高校で、私は運動部に所属する生徒たちにどんなスポーツをしているのかを尋ねた。黒髪で筋肉質の四年生のジャック・ギャリティは微笑んだ。「僕はラクロスとアメリカンフットボール……、あとチェロ」と、見知らぬ人が彼のような男性に持つであろう先入観を打ち砕くことに喜びを感じているかのように彼は答えた。

p.29

要は、「男なのにチェロをやっているから彼は従来のステレオタイプから脱却している、素晴らしい」と著者はいいたいのでしょう。正直なところ私としては、彼は筋肉質でラクロスやアメリカンフットボールなどのスポーツを嗜む、という「男らしさ」の土台があったからこそ、少しばかり男らしくないチェロという趣味を余裕を持って公言できたのではないか?と勘ぐってしまうのです。

三つ目ですが、(これは二つ目と被りますが)本書で登場する男子学生のほとんどが、バスケットボールやアメリカンフットボール、そしてレスリングの選手です。著者は彼らに対して、従来の男らしさを再定義することや、女性を1人の人間として尊重することを願いますが、決して今やっているスポーツ自体をやめろとは主張しません。もちろんそれは、彼らの好きなことを禁止したくないという著者の心遣いもあるのでしょう。しかし、それと同時に、「あなた達の土台にある根本的な(そして女性にとって有用な)強さは捨てないでくれ」と言外に匂わせている、もしくは無意識のうちにそれを内面化しているように感じられるのです。私からすると、そのような強さも、充分マンボックスだと思うのですが…。

四つ目ですが、第6章では黒人の男性や少年のおかれている厳しい状況(人種差別、暴力)について言及されています。黒人の男性は攻撃的で危険だという思い込みによって、彼らが様々な重荷を背負っていることが書かれています。そして、長い間、黒人男性が性的不正行為において冤罪をかけられてきたことにも触れます。

女性との出会いの人種的側面を無視できないと、シカゴやワシントン DCの若い黒人男性は話す。たとえば、一九五五年にミシシッピ州で二一歳の白人女性の気を引こうとしたという虚偽の告発でリンチされた、当時一四歳のエメット・ティルや、二〇一六年に白人女性による虚偽のレイプ告発のせいで大学生活やスポーツ人生を狂わされたサクレッドハート大学の二人のアメフト選手、ダミール・ブラッドレーとマリク・セントヒレアなどが挙げられる(彼女は後に、他の男性からの同情を買うために噓をついたと認め、二〇一八年に、最後の二年に執行猶予が付いた懲役三年の判決が言い渡された)。

p.231

アメリカで、今なお深刻な黒人差別があるのは事実でしょう。そして、著者はこれらの冤罪事件を“ジェンダー問題”ではなく“人種問題”として捉えているようです。しかし、性的不正行為の冤罪は、白人女性→黒人(有色人)男性の関係性でのみ起こるものなのでしょうか?本書において、女性による冤罪事件は上記の引用を除いて登場しません。性的同意書の項で、著者はセックスの前に契約書を書くことについては「滅茶苦茶である」し、「息子たちに女性は信用できないと教えることはひねくれている」とも書いています。しかし…この6章での冤罪をかけられた黒人男性の事件を見た限りでは、すべての女性が信用できないとは流石に言いませんが、信用できない女性も存在するのだから、性的同意書を滅茶苦茶であると言い切るのは乱暴ではないか?というのが正直な感想です。

統括すると、著者は男の子を持つ母親として、男性や少年の苦しみに寄り添おうとしていることは読者としても理解できました。

それでも、著者がフェミニズムや男女の性差の否定などを絶対的に正しいものだと思っていることは感じられました。そして。マンボックスは絶対的に悪しきもの、という結論ありきで書かれているな、と私は思いました。

最後に…

最後に私の考えを述べます。

マンボックスはある程度は解消できるでしょうが、根本的になくすことはできないと考えます。

タイタニック号沈没においてはレディーファーストにより、死亡した女性客の数は男性客に比べて格段に少ないものになりました。

乗員の生存率は男性22%、女性91%だったそうです。この当時、まさに女性の権利は抑圧されており、悪しきマンボックスが社会全体を覆っていた筈です。しかし、それでも緊急事態となると、男性は女性を守るために死んでゆきました。

私も皮肉交じりにこのことについてツイートをしたことがあります。もしまた同じような事故があったとして、(もちろん全員助かることが理想ではありますが)マンボックスが無くなったことにより、男女の死亡率が同じに、つまり、女性が男性と同じ位亡くなることについて女性は、そして、この本の著者も受け入れないでしょう。

そして…。

2022年ロシアのウクライナ侵攻の際には、18~60歳の男性の出国が禁止されました。一つの国、それ自体が「マンボックス」となったのです。そして、世界中の人々はそれを当然のこととして受け入れています。国家の危機に対して、「死にたくないから逃げたい」とマンボックスから脱却しようとする男性に対して、国が、そして女性達がそれを優しく受け入れるのかは、私個人としては甚だ疑問に思うのです。

最後までお読みいただきありがとうございました。




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