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しきから聞いた話 177 八の字の眉

「八の字の眉」


 夏に熱中症で倒れたご隠居が、いよいよ老衰で危ないというので、見舞いに出かけた。

 もう90もなかばで、あちこちが弱っている。それでも頭はまだしっかりしたもので、床の中で穏やかな笑顔を見せてくれた。

「体に、なんだか力が入らんで、もう、お迎え待つだけかなぁて」
「なに言ってんの。もちょっと頑張って。よりちゃんの赤ん坊の顔、見なきゃねぇ」

 枕辺に座った娘が、気楽な口調で励ます。よりちゃんというのは、ご隠居の孫で、そろそろ臨月だという話だった。

「うん。女の子だものなぁ」

 曾孫は3人目だが、女の子は初めてだそうだ。

「生まれる前にわかるなんて、不思議な世の中だねぇ」

 ゆっくり、ゆっくりとした口調でそう言ってから、ご隠居は少し疲れたように目を閉じた。娘と共にその顔を見ていると、縁側の、少し開いた障子が、がたがたと鳴った。
 見ると、白い中型犬が、前足で障子を開けようとしている。娘が「あら」と腰を浮かしたところで、犬は隙間からするりと入ってきた。さらに、犬を追いかけるように、子供の声がした。

「ハチー、そこ、だめだよー」

 顔を出したのは、曾孫筆頭の男の子で、たしか小学6年生だ。

「いいよ、ハチもひいじいちゃんが心配なんだよ」

 子供にとっては祖母である娘がそう言うと、男の子はハチの腹の下に腕を入れ、抱えるようにして、ご隠居の枕辺に座り込んだ。

「ハチ、ひいじいちゃん、笑わしてあげな」

 何かと思って見ていると、男の子はハチの顔をぐいと、ご隠居の近くに向けた。

「あらやだ、何よ、それ」

 娘が吹き出す。なんと、ハチの目の上には、マジックらしきもので黒々と、八の字に眉が描かれていた。

「ね、面白いでしょ、ハチだからさ、笑えるでしょ」

 男の子は得意気に笑ったが、ハチは何とも情けない顔になった。

「ん、んー」

 ご隠居が、うっすらと目を開ける。
 目の前には、ハチの困ったような顔があった。

「おや、まあ、気の毒に」

 ふふふっと笑う。そして、布団から手をのばして、男の子に抱えられたハチの首筋を、優しくなでてやった。

 その晩のこと。
 そろそろ休もうかという時刻になって、玄関先に何やら気配が動いた。出て行ってみると、白い犬がきちんと前足をそろえ、座っていた。
 ハチだ。

「夜分に申し訳ありません。どうしても、お願いしたいことがございまして」

 ぺこりと頭を下げてから、顔を上げる。
 男の子に描かれた眉は、ずいぶん薄くなっている。どうにかして消そうとしたのか、頭も体も、あちこちが濡れている。

 ちょっと待て、とタオルを出してきて拭いてやると、鼻の奥の方で小さく、くぅんと鳴いた。

「眉は、水で落ちるものだったので、なんとか消してきました。で、お願いと申しますのも、実は、これで」

 ハチは前足の脇から、太いマジックをくわえて見せた。受け取ると、顔をぐいっと突き出してくる。

「情けない眉でなく、勇ましい眉を、これで描いていただけませんか」

 いったい、どうしたというのだ。

「じいさまはもう、長くありません。わたしはじいさまに、とても大事にしていただきました。わたしの親は、猟犬です。勇ましい犬の仔だ、と、じいさまは喜んでわたしを迎えてくれたのです。わたしは勇ましく、逞しく、じいさまの家族を守りたい。安心して欲しい。だからわたしを、そういう顔にして下さい」

 そんなことをしなくても、ご隠居はおまえの気持ちをわかっているよ。おまえを大事に想っているよ。そう言ったが、ハチは、どうか、どうかお願いしますと、頭を下げた。

 そこまで言うなら、勇ましい眉を描いてあげよう。

 描き終わるとハチは、舌を出してハッハッと息を吐いた。
 勇ましい眉の下で、笑ったような顔になる。

「ありがとうございます」

 くるりと背を向けたハチは、尻尾までも勇ましく振り立てながら、小走りに帰っていった。

 さて、ご隠居は、また優しく笑うだろうか。
 幸せな、穏やかな、旅立ちであるように、祈ろう。

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