見出し画像

介護職から見る【注文をまちがえる料理店】

0.呼び出される

言わずもがな、バズっている『注文をまちがえる料理店』ですが、いつも大変お世話になっている和田行男さんから連絡が入ります。『注文をまちがえる料理店というのをやります。面白そうだったら、こちらに入金してください。』面白そうなので入金したんですけど、すると連絡が入ります。〇月〇日、港区三田にて、『注文をまちがえる料理店』を開催します。ぜひ、お越しください。その日は『注文をまちがえる料理店』の0号機。お客さんとして入場。

1.再び呼び出される

 9月に六本木のRANDYってお店で注文をやるから、お前、高齢者連れてきてな~。マジか、入団試験合格だな。0号機はお客さんとして、初号機は整備士としてパイロットの支援。いつもやっていることをそのままやればよいのだけど、こいつはなかなか難しい。本人のできることを極限まで黒子のように応援すること、は、いつもやっているが、お客さんとして参加していた時に、僕は黒子の動きを3見て、高齢者の動きを7見ていた。お客さんは黒子を見に来たわけではない。一見すると華がない高齢者を見に来ている。不純にも『まちがえてくれないかな?』とすら思っている(僕がお客さんだった時には、間違えてくれたら、このように返して笑いを取ろうとまで用意して臨んだから)。そしてこいつは大きなチャンスだ。日ごろから見えないものとして取り扱われる高齢者が、見えるものになる。むしろ主役だ。高齢者が輝くための数時間のチャレンジ。現場から離れた僕には、ちょうどよい。当日はエリアを半分に分け、和田さん率いる『大起エンゼルヘルプ隊』と、『飯塚連合』に分かれ、運営をさせていただいた(なんとも幸福である)。年に一度はぎりぎりでできることをたくさんやらないと、腕がなまってしまう。こうして、『高齢者をしっかりと輝かすこと』ができた僕は、すがすがしく帰路についた。どうやら、介護職ってのは、普段は大した仕事をしていないが、いつもよりも頑張って目に見える成果が出た時に、とてつもなく感動するらしく、感動ポルノを無修正で手放せなくなる存在らしい。つまるところ、感動ジャンキー。こいつには残念ながら、依存性があるようで、もっと、もっと、と、エスカレートしていく。

2.二度あることは三度ある

 『次は御殿場や。』・・・どうやら御殿場に、『とらや工房』ってのがあって、皆さんご存知ようかんの虎屋のカフェで御殿場市の有志が『注文をまちがえるとらやカフェ』を行った。僕は遊んでいるだけだったけど、さすが普段接している介護職たち。スムーズに運営され、なおかつ高齢者の魅力をいかんなく発揮した。

3.介護職の専門性とは何か?

 自称いつもクリエイティブで鼻高々の僕は、とらやで学んだことがある。それは、『僕がいなくても現場は回る』ってこと。これは相当な衝撃で、いつも勘違いしてしまうんだけど、介護の専門的な知識(と言っても僕が持っているものは大したことはないのだけど)を凌駕するのは、その対象者と過ごした時間なのだ。対象の方が好きなもの、嫌いなもの、どのような歴史を刻みながらそれでもなお生きて、今何を考え、何に悩み、何を忘れ、何を覚えており、何を覚えておかなければならないと感じているのか?そんなことを知っている人が隣にいるだけで、対象者は輝きだす。その人個人の杖になり、翼になり、エンジンになる。そんな介護職に私はなりたい。『専門性とは、人と違う、いつもやっていること』だとするならば、いつもご本人とやっていることは、他の人にはできないことなのだ。

4.各地で『注文トリビュート』イベントが

 三田から始まった『注文をまちがえる料理店』は、東京を飛び出し、日本各地どころか、世界各国で行われることとなる。発起人の小国さんは言う。『閉塞した日本社会において、もっと、「ま、いっか」と、寛容な世の中になると良いのに』。なるほど、一般に受け入れられる価値観とはそのようなことを指すのだ。意地悪で閉塞して、何か事を起こすとすぐに拡散されるような世の中では、万事こぎれいにしていないと、排除されるようなせせこましさを感じる。窮屈で、それでも生きていこうと思ったら、小汚い自分を厚塗りに化粧して、写真もきれいに、そんなことをし続けても息が詰まらない人間が生き残る。例えスーツに縛られなくても、お天道様に逆らえない。むしろ絶対的なお天道様よりも恐ろしい、どこから刺されるのかわからない監視社会において、失敗を許されない狭い許容度の中で自分にふたをしながら生きないと食べていけない。そんな世の中なのだろう。聖人君子にあこがれる人類が、聖人君子ではないものを順番に排除していく社会。そんなものは妬みでしかない。

 翻って、介護職の僕たちはそういった価値観から少しばかり外れた感覚を持っている。つまり『そもそも、人間がそんなに身ぎれいなものであるなら、高齢者はとっくにこの世から排除されているだろう』ってリアル。そいつを感じながら、いくつかのトリビュートイベントに顔を出した。大抵のイベントは、運営した介護職に大きな影響を与えていたと思う。何をもって成功とするか、それ自身が次の介護に良い影響を与えるのだと。

 内容がどうあれ、切り取られるレポートは、結果『キレイに見える』ってことだけが残る。僕は本質的には、『キレイ』を餌に、お客さんやスタッフが美意識を整えるきっかけになるようなイベントだと思っている。これは、今の介護業界から、社会に発信できる強力なツールだと思っている。

5.三度あることは四度ある

 『三月、空けといてくれな~』忘れたころにやってくる。恐怖新聞なみの戦慄が走り、大きな寛容さの背後に小さな、しかしかなり鋭利なお誘いが投函される。たとえるなら『ドキュメンタル』で松本人志が出演者に送る手紙みたいなものだ。僕の立ち位置はフジモンみたいなものだ。僕は、ハイハイ、次はどこですか~。と、鼻くそをほじりながら聞くと、『役人向けやぁ。』と僕の中のレジェンドは言い、僕は小指が脳みそに届くほどに驚いた。まるで、僕の中の松本人志がちょんまげをして中村主水に変身し耳元でささやいたように思えた。『さあ、仕事だぜ』

 僕は、役人は嫌いではない。むしろ尊敬に値するのは、(すべてではないかもしれないが)僕が知っている役人は、僕よりもはるかに多く勉強をし、僕よりもはるかに多く仕事をし、そして僕よりもはるかにこの国のためになろうと努力をしているということ。様々な条件下で国を運営している彼らと、リアルベースで介護の対話ができると思うと実にこの仕事をしていてよかったと思う。そもそも、人間には立場や制約なんかないはずで、より人間にとって大事なものは何かという本質的(なのか?)というか、国民一人一人に向き合う機会というのは、一人一人に影響を及ぼす制度設計の現場では最も重要だと個人的には感じる。

 どうせなら、厚生労働省とか、国会の食堂なんかでやったら、少しだけ世界が変わるかもしれないよね。介護職員が輝くことが大事なのではなく、介護職員が輝いた先に、生活している高齢者がきらめかなくては、何にも意味がない。それができるのが、まっとうな介護職。

 国民は一生懸命に生きており、歴史を刻んで生き続けているという証拠としての高齢者が、それでもなぜ、一生懸命に生きるのかというリアルを応援するしかない僕たちの立場は、僕たちがよりよく生き延びるために必要不可欠なことかもしれない。・・・そうだ、現場へ行こう!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?