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[前編] 家族をリベラルに取り戻すことについて:東浩紀『訂正可能性の哲学』(2023.09.01読了)

わたしは著者の東浩紀の長年の読者である。東のデビュー時、わたしは小学生だったため、『存在論的、郵便的』(1998)にリアルタイムで出会うことはさすがにかなわなかったが、後年読んだ『動物化するポストモダン』(2001)とそれに続くゼロ年代の批評群には衝撃を受け、魅了された。それ以来の忠実なファンである。東の著作は10代のわたしが思想や哲学の分野に最初に関心を持つきっかけとなったし、それ以降の読書歴も大きな影響を受けた。もちろん東自身の活動も継続的にフォローし、彼が学術界とも文芸批評界とも袂を分かったのちに主戦場として自ら作り上げた『思想地図』、『思想地図β』、そして現在も続く『ゲンロン』にいたる雑誌は欠かさず購入し、彼や他の執筆陣が書いた文章を読んできた。こうした熱い過去四半世紀をすごしてきた読者は、わたしのほかにも日本にも世界にも多くいるのだろう。

このように東の著作を長年読んできたからこそなのだろうが、『訂正可能性の哲学』を読み終えたときには、初めて読む本のはずなのになぜかずっと昔から親しんだ愛読書に思えるような、不思議な読後感を得た(現実的な理由として、同書の内容の一部はすでに『ゲンロン』他に掲載された論考をもとにしているというのもあるだろう)。


リベラルという家族の敵

『訂正可能性の哲学』は、2017年に出版された『観光客の哲学』という書物の姉妹編として書かれている。2023年6月に増補版が発売された同書の前半部では、グローバリズムとナショナリズム/ローカリズム(≒GAFA的なものとトランプ的なもの)の対立を脱構築するマルチチュードの新しい様相として「観光客」概念が展開される。
そして後半は「家族の哲学(試論)」と題されたパートになっていた。わたしはこの本を発表当初に読んだときに、内容はすぐれていると感じたが、構成がややいびつで、少し中途半端な終わり方であるという印象を受けていた。東のいう「家族」が、前半部で論じられた「観光客」とどう接続されるのかもよくわからなかった。

『訂正可能性の哲学』の前半部分は、『観光客の~』で試みられた、「家族の哲学」の完結編といえる内容で、読者としては6年間待った甲斐ががあるというべき、大変満足いくものだった。

言ってしまえば、東は「家族」ということばをリベラルの側に取り戻そうとしている。それが彼がこの本を書いた大きな理由のひとつだと考えられる。

いま、「家族」や「子育て」ということばと、そのゲシュタルトは、インテリや亜インテリ、意識高い人たち、意識高い系の人たち などなどから端的に嫌われている。このことにピンとくる人は多いだろう。

たとえば、リベラル女性に愛されるPrime Videoのリアリティショー、『バチェラー・ジャパン シーズン5』において、バチェラーの「子供が生まれたら~云々」という、結婚後は子供を持つことをあたかも説明不要な公理のように置いた発言にピーキーに反応した参加者女性を思い浮かべてみればよい。バチェラーに面と向かって発言の不適切さを指摘したのは大野さんと竹下さんだけだったが、実質的に参加者全員が不快感を表明していた。


また、リベラル女性に愛される飲食チェーンのスープストックトーキョーがベビーフードの無償提供をおこなうときくや否や、Twitter(当時の名称。現X)上のアンチによって「子連れ客はマナーが悪いから来るんじゃねえ」キャンペーンが展開されたことも記憶に新しい。


要点はこうだ。ある一群の都市生活者には、「独身であり、子を持たないほうがラディカルなんだ」、「結婚して家族を持つことや、子育てをすることは旧世代の価値観のくびきから逃れられていない証左なのだ」、という思いこみがある。リベラルを自認する人間であれば誰もが内なる上野千鶴子を飼っている。

かくいうわたしも例外ではなく、子嫌いを自称し、反出生主義などに耽溺している、あるいはかつては耽溺していた。

ところがこうした考えはラディカルでもなんでもなく、むしろ古い。東が『訂正可能性の~』で指摘している通り、実は家族嫌いの思考はプラトンにまでさかのぼる。プラトン含め、たいてい自分は頭がいいと思っている人たちは家族の解体を訴えるようなのだ。プラトンは政治における汚職や腐敗につながる血統、家族を否定し、「国家」の優越をうたった。

アーレントも、公的なものと私的なものの二分律の中で、後者を代表する家族の形象が公共性の出現をさまたげるとした。彼女は古代ギリシャのポリスの民主政治を公共性のロールモデルとしていたのだからプラトンと同じような考えになるのは当然だ。

経済学の観点からみても、富の再配分において最大の阻害要因となるのはやはり家族である。そして家族の重要性の強調は、市民に自助努力をうながす考え方や政策と直結しているし、それを否定しようとすれば共産主義への道のりは近い。

とかく家族や子育てを大切にすることは、伝統的な社会観への拘泥、すなわち保守思想と結び付けて語られる。リベラルの価値観では、自分の身の回りの人を大切にするだけでなくもっと大きな公共に奉仕しようとするのがより進歩的で善良な市民の姿であるとされる。

家族概念の再発明

東は、この伝統的な家族に対する見方の脱構築を行う。家族はふつうは、同じ家に住み、血縁関係でつながった、金銭収入を共有する経済的な活動単位であり、閉じたグループというイメージがある。この閉鎖的なイメージこそが、リベラルがアレルギー反応を示す理由だ。

ところが東が述べる通り、実際家族というのはじつに曖昧な概念である。たとえばわたしの両親は現在離れて暮らしているが、家族だと思うし、遺伝子的にはきわめて大きな隔たりがある飼い犬も、家族の一員だと感じる(なんなら苗字が同じだ)。

東の整理によれば、家族は強制性(簡単にはリタイアできない)、偶然性(親ガチャ、子ガチャ)、開放性(メンバーは増減する)という特徴がある。

家族はその一般的なイメージに反し、固定されたメンバーで構成された閉鎖的な共同体ではない。常に新しいメンバーの加入に対して開かれている(子供、入り婿、ペットなどなど)。それでいて集団として連続的でもある。新しいメンバーが加わったからといって、家族自体がそれまでとまったく違ったものになるわけではない。

家族は血縁だけに基づくわけではなく、同じ考えを共有していなくても良い。同じものが好き、とか同じ町に住んでいた、とかいう適当な理由だけで人は連帯しうる。家族になりうる。


ワイルドスピードに見る家族の哲学

映画『ワイルドスピード』シリーズを見たことがある人は考えてみればよい(注1)。走り屋集団のリーダーで主人公のドムはまさに家族の哲学を生きる人物だ。彼はことあるごとに「ファミリー」の絆が彼の人生の重要な決断において何より大切であることを強調する。日本のマイルドヤンキー用語に置き換えれば「ジモト」「ナカマ」がぴったりくるであろう。ドムが言うファミリーは、血縁や婚姻に基づく関係性を意味しない。

『ワイルドスピード』では、シリーズが進むにつれてファミリーの構成員が増えていく。増える原理のほとんどは、「戦ってお互いを認め合う」という少年漫画のクリシェに近いが、とにかく、人種や思想や出自の違いは簡単に乗り越えられる。警察官と犯罪者という関係だろうが、パートナーが不貞行為に及んだ際の相手だろうが、かつて別のファミリーを殺した人間だろうが、ファミリーには受け入れられる。
そして一度受け入れられれば鉄の絆で結ばれるのだが、当然過去のしがらみを精算する必要があるので、彼らは解決策として飲み会をする。各作品の最後に、一仕事終えた後のファミリーたちが、増えた仲間とともに肉と酒を囲み、打ち上げ的におこなうバーベキューはこのシリーズを象徴するシーンだ(注2)。

重要なのは、ドムがファミリーに属す人を惹き付ける理由に関する説明が特になされないということだ。シリーズ初期は車を使った強盗団の親玉だったので、ファミリーにとっても仕事を回してくれる人という経済合理的な価値はあったのだろうが、シリーズに親しんでいるファンならばわかる通り、ファミリーはいったんお話上は第5作で力をあわせて一生遊んで暮らせる分の富を手にし、いったん窃盗業からは足を洗う。
それでも、ファミリーの誰かが困ったりすると、ドムの掛け声ひとつでみんな世界中から集まってくる。そして冒険が始まる。ドムはある意味で空虚な中心なのである。

家族が連帯するのは、考え方が同じからとか、お金がもらえるからとか、自分と姿が似ているからとかではない(注3)。そうした互酬の倫理で内と外(=友と敵)を分けるのではなく、もっと緩やかにつながり、相手も選ばず、ただ気づいたらそこにある、というのが家族だ。

さらに付け加えるならば、特に最近の作品ではドムを中心とするファミリーに敵対するのは「ハッカー」と呼ばれる人物たちである。人工知能やビッグデータや監視技術を駆使して国際犯罪をたくらむハッカーとファミリーの対立が描かれる。
ハッカーは明らかにネグリ&ハートがいうところの帝国の表象だし、東が『訂正可能性の哲学』の第2部で論駁を試みるAI民主主義唱道勢とリンクしている。そして、特に根城を持たない寄せ集め集団でありながら帝国に抵抗するファミリーは(郵便的)マルチチュードそのものだろう。

繰り返しになるが、東は家族ということばで血縁集団を指し示しているわけではない。制度でありつつ運動体でもあるような集団の形に対して、象徴的な次元で「家族」という名前をあてているに過ぎない、というのがわたしの読解だ。その意味で、東がいう家族は、『ワイルドスピード』で描かれるファミリーと大きく共鳴しているように思う。


ローティの再評価

家族は増えていくし、その構成員や類似性は遡及的に発見・定義される。逆に言えばまだ見ぬ他者が家族になるかどうかはまったくわからない。それが開かれということの意味だ。なお東は他者という言葉は使っていない。

東は家族の連帯の特徴について補強するため、リチャード・ローティの1989年の著書『偶然性・アイロニ―・連帯』で提案されたリベラル・アイロニズムという立場を引き入れる。ローティは同書の結びを結ぶ箇所で、これからの連帯を支えるのは、「わたしたちが信じたり欲望したりしていることを、あなたも信じたり欲望したりしますか」という問いではなく、「あなたは苦しんでいますか」という単純な問いであるべきなのだと記している。

人は普通、特定の伝統や文化、世界観や道徳などの共有を前提として団体や政党や企業を作っている。しかしローティの考えではその発想では思想を異にする人を排除することになる。ローティはむしろ、思想の共有ではなく、目の前の誰かの身体的/精神的な苦痛への「共感」のほうが、他者との連帯を構築するうえでは有効なのだと考えた。ひらたくいえば、相手が共産主義者だろうが、犯罪者だろうが、敵国人だろうが、人間は目の前で血を流して苦しんでいれば手を差し伸べてしまう生き物なのだから、そこに連帯の基礎を置こうと提案したのである。

東がローティを引いて主張するのは、隣人に対して否応なく向けられる共感による連帯は、保守化を意味しないということだ。むしろ共感を向ける対象である隣人こそが、常に変化の過程の中にあることこそが重要なのだ。

共感を向ける対象=となりにいる誰か=家族のメンバーが変われば、考え方を変えていく必要がある。書名にある通り、東はこの動的な過程を「訂正」と呼んでいる。

突然自分の話になるが、わたしはかつては子嫌いを公言しており、反出生主義者の自覚すらあった。ところが、いざ自分の子どもが生まれてみれば考えを改めざるを得なかった。というか、家に子どもがいると放置するわけにはいかないので否応なくケアに駆り立てられる。その現場には、「自分の子どもだけが大切なわけじゃないだろう、身内にばかり優しいから保守派はダメなんだ」とかいうリベラルな理想論をぶつ余力はない。家に子供がいると世話しないわけにいかない。目の前にいる子供に対する共感、ないしピティエに基づいてケア労働をしていくほかない。ついでに、車も売ろうと思っていたが子どもがいると超便利なので結局売らずじまいでいる。

ただ、このような共感が否応なく強制されるいっぽうで、家族のつながりはjあくまで、ゆるい。子育ての営みすら永続するわけではないし、わたしの共感が向けられる他の対象を排除するわけでもない。別に他の人たちのお世話をしても構わないわけだ。たとえば親の介護も、もう少しすればわたしの人生に入り込んでくるだろう。

このように、時間の経過とともに常にメンバーが入れ替わってルールの更新がある動的な様態こそが公共性の条件なのだが、これまでの人文社会科学にはこのダイナミズムを端的に表現する道具・言葉がなかったのだ。そこに「家族」ということばをあてたのが東の白眉であるといえる。


左派の社会運動はなぜ持続しないのか

もちろん、東が家族概念の再生を呼びかけることの射程は、子育てや親の介護といった小さな公共に対する有用性に留まらない。東の念頭にはやはり、政治思想または社会運動の原理として有効であるという見立てがあるのではないか。

SEALDsの失敗に象徴されるように、昨今の左派の社会運動がなぜ継続しないかというと、左派は思想を同じくすることを連帯の条件とするからである。彼らの連帯を支える理路は、東が『観光客の~』でも参照していたカール・シュミットの友敵理論に近く、思想が同じなら友、思想が異なるならば敵とみなすという、シンプルかつ静的な線引きに基づくものである。
ところが思想が同じ、考えが同じという理由で連帯しようとすると、すぐに純粋主義に陥り、内ゲバになる。60年代全共闘を思い浮かべればよい。あるいは/さらに、主張がひたすら細分化して本来連帯すべき相手と連帯できなくなり、社会運動の単位として弱くなる。これは現代のフェミニストやLGBTQ人権活動家に特徴的だ。

それぞれ違う個人のAさんとBさんがまったく同じ考えかどうか、ということを突き詰めると、AさんとBさんが親族や恋人だとしても、完全に隅から隅まで合意はできないはずである。わたしも妻とは思想信条がかなり異なる。
いっぽうで、今の左翼は、仲間たちには同じ問題に対して自分と同じ熱量で憤ることを要求する。彼らからは、ジャニーズ問題に対して同じ熱量でキレないと即座に敵認定される。

いっぽうで、もっと緩やかに(家族的に)つながっている保守政党の連帯はより強い。例えば公明党に対して自民党は、公明党が宗教団体を地盤に持つことや憲法20条を理由に糾弾はしない。政策的な対立も適当に乗り越えている。
もっとも、これはわたしが自民を支持しているということではなく、あくまで連帯の方式として保守サイドのほうが優れた様式を持っているのではないかと指摘しているに過ぎない。

つまるところ東は、「家族はけっこういいぞ、しかもそこまで排他的ではなく進歩的な理念でもあるぞ」とリベラルに呼びかけているのではないか。家族とか子育てとかいうキーワードをきくだけでアレルギー的に拒否反応を示すリベラル知識人に「それはもったいないよ」というメッセージを向けているのだろう。

後編へ続く↓



注1:『ワイルドスピード』は、2001年に第1作が公開されて以来、規模を拡大し続けている巨大フランチャイズで、2023年10月時点でスピンオフも含めて11作品が作られている。興行収入は累計9,000億円あまりで、そのうち3分の2以上がアメリカ国外での売上という、ハリウッド超大作としては巨大かつ異例な観客ポートフォリオを持っている。
ここで『ワイルドスピード』の例をあげたのは、これが書名にもある「訂正可能性」を体現するような作品だと思えるからだ。本文で説明している通り、敵がどんどん味方になっていくお話の内容はさることながら、作品外でも商品として何度か大きな転換点を経験している。
まず大きかったのは、3作品目で監督が交代し、シリーズとしていわば仕切り直しがおこなわれたことだろう。第3作から第6作まで4作連続で監督を務め、第9作でも復帰したジャスティン・リンは台湾系アメリカ人なのだが、彼の指揮のもと、ワイスピはきわめて人種的バランスがとれた出演陣で構成されるようになった。アジア系、ヒスパニック、黒人、白人、ミックス、、、と、ありとあらゆる人種のキャラクターが主人公のグループと敵対する勢力の両方に登場する。このことにより、『ワイルドスピード』は様々な地域に住む様々な人種グループにアピールするコンテンツとなり、前述したグローバルヒットとなった。
主人公も訂正された。シリーズの第1作目は、ほぼ『ハートブルー』(1991)を車中心に翻案した作品といってよく、ロサンゼルスでストリートレーシングと車を使った強盗に明け暮れる犯罪集団に潜入捜査を行ったFBI捜査官と、犯罪集団の親玉の友情と活躍を描いた低予算+αくらいで作られたまじめな映画だった。
そして第1作から第4作にかけて、作劇上の主人公はFBI捜査官ブライアン(ポール・ウォーカー)だった。実質的に外伝の第3作は除く。しかし第5作から、第2作、第3作にはまともに登場すらしていなかったドム(ヴィン・ディーゼル)が主人公になり、あたかも最初から彼が主人公だったかのように、お話はドムを中心とするファミリーによる冒険活劇にシフトしていく。こうなってしまうと、もはや第1作も、準主人公のブライアンがカリスマ犯罪者で主人公のドムに出会うストーリーに見えてくるから不思議だ。

注2:『訂正可能性の哲学』では書かれていないが、東浩紀は各所で、「考えが違う人間同士が会話するためには飲み会をするしかない」「イベントをやった後の飲み会は超重要」といった発言を反復しており、この点においても『ワイルドスピード』と精神性を共有していることが示唆される。

注3:『ワイルドスピード』の主人公ファミリーは、男性に関しては頭髪が無い(スキンヘッド)、またはきわめて薄い人物が多いことがしばしば指摘される。同じ属性を有することに基づく連帯なのではないかというつっこみがありうるが、これこそヴィトゲンシュタインの「家族的類似性」を援用して説明すべき事案だろう。





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