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『恥辱』 J・M・クッツェー

読み始めた最初のうちは、この小説がなぜブッカー賞に?と思った。
だが読み進めながら分かってきた。これは渾身の作品だ。そして、私たちの常識と倫理観に刃を立てる問題作だと。

南アフリカに住むデヴィッドは52歳の、カレッジの准教授。
教えているのは、本来専門の文学ではなく、大学が時勢に合わせて設置した「コミュニケーション学」とやら。

二度の結婚に失敗し、五十路の独り身である彼だが、自身の性的な魅力に関しては、若い頃はそれなりに自信があった。どんな目で見つめれば女性がなびくか、そんな技術もお手のものだった。
のだが。
最近は自分の魅力の衰えを薄々感じている。
家庭のある娼婦にストーカーまがいの行為をする、気に入った女子大生をつけ回してものにするなど、情事もなんだか格好悪い。
そしてこの度、そうしてうっかり手を出した女子大生から、手痛いしっぺ返しをくらってしまう。
相手の女子大生が突然彼を告発し、彼は、ハラスメント(教授の立場を利用して若い娘をもてあそんだ)と、職権濫用(私情のままに、不正な記録をつけた)の咎に問われる立場となるのだ。

デヴィッドの研究テーマは詩人のバイロンだ。
講義でバイロンの詩を取り上げた彼は、そこに登場するルシファーについてこんな講釈をする。

「(ルシファーは)道義ではなく、衝動に従って行動し、その衝動の発露はといえば、昏い闇のなかで彼にもわからない。・・・バイロンはこう仄めかす。“彼”を愛するのはどだい無理だ、愛をより深く人間らしい意味にとるならば。“彼”には孤独という裁きがおりるだろう、と」

デヴィッドがこのルシファー像に自分を重ね合わせているとしたら、まあかっこつけたものである。
要は、欲望の赴くままに女性を軽視してウキウキと舞い上がったあげくに手痛い目に会っているというだけのことなのだ。

窮地に陥った彼に対して、元妻は辛辣だ。

どれほどお馬鹿さんに見えるか、申し上げても構わない?・・・馬鹿なうえに、みっともない。・・・わたしの同情は期待しないことね、デヴィッド。世間の同情も。

大学としては初めは内密に収めたかった。デヴィッドが大人しく反省の色を示してくれれば、休暇を取らせそのうち教職に復帰させようと。しかしデヴィッドは査問委員会ではふてぶてしい態度を取り、校内新聞のインタビューには「この経験でひとつ豊かになった」と開き直りのような答えをする。

デヴィッドを糾弾するフェミニスト達と、同情し護ろうとする男の同僚達。頑ななデヴィッド。その様子はコミカルに書かれ、読者の苦笑を誘う。

悔悛を示すことを求める査問委員会に対し、デヴィッドは頑なに拒む。裁きを受けるのはいいが心にもない謝罪はしない、と。

公式の構成委員による裁きの場に臨み、その世俗法廷で有罪答弁をした。世俗の有罪答弁を。その答弁で充分なはずだ。悔悛など、この世のどこにもない。それは異世界のもの、べつな次元の論法だ。

意味することはわからないではないが、その主張は意固地で鼻持ちならない。

頑として査問委員会の提案に応じないデヴィッドは、大学を首になる。
ここまでの話が長くなったが、この小説が本当に始まるのは、この後、大学を去ったデヴィッドが、農園を営む娘のもとに身を寄せるところからだ。

土着の黒人が多く住む田舎で、農園を一人で切り盛りする(今まで一緒にいた、多分恋人でもあった女性は、別れて出て行ったらしい)娘のルーシーは、すっかり田舎の価値観を身につけ、肉付きもよくなっている。
デヴィッドの話を聞くルーシーの反応がいい。熱くなって自論を主張する父に対し、穏やかでクールだ。

「それで、あなたは主張をゆずらず、むこうもゆずらなかった。そういうこと?」
「そんなところだ」
・・・
「そう、それはお気の毒ね。好きなだけ居てちょうだい。理由はなんでもいいから」

というわけで、農園での暮らしを始めるデヴィッド。

さて。新しい冒険の始まりだ。むかしむかしは学校やバレエ教室やサーカスやスケートリンクに車で送ってやった娘が、いまはこの父を散歩につれだし、ひとの暮らしを教え、この見知らぬ異世界に案内しようとしている。

ルーシーの勧めで、動物愛護主義の獣医の手伝いを始めるが、ずんぐりして醜い女性獣医ベヴにデヴィッドは嫌悪感しか感じない。

ルーシーの友人たちには、前々から抵抗がある。誇れるものがなにもない。そんな偏見が心中に巣くい、いまも染みついていた。わが心は、古くさくて役立たずで貧困でほかに行き場を失った考えの隠れ家だ。そういう考えは追いだして、家屋をきれいに掃除すべきなのだろう。だが、そんな気はない、さらさら無い。

スノッブで高慢な男がだらだらと不満と自嘲を繰り出しながら日々を過ごす。
いつまでこんな感じで続くのだろうか、と読みながら思いはじめる頃に、物語は衝撃的に急展開する。
農場が暴漢に襲撃されるのだ。
デヴィッドはトイレに閉じ込められ、ライターで火をつけられて火傷を負う。その間ルーシーがどんな目に遭っていたかは想像がつく。
農園で飼っていた犬達も惨殺される。

その事件がただの強盗ではなく、なにか仕組まれた裏があると感じるデヴィッド。
農場で、犬の世話のために雇っている黒人の男も怪しい。
だが、ルーシーは一切その件に触れたがらない。警察に通報したのも、事件の解明や犯人逮捕のためではなく、保険手続きに必要だからだと言う。

事件に絡む周囲の反応と何かが黙認されているような気配は、気味悪く違和感を感じさせる。
事件当時に限って姿をくらませていた犬世話係(通称犬男)のペトラスは、事件直後に自分の農地を正式に手に入れ、急に羽ぶりがよくなる。
農園を襲撃した男達がなぜか犬達を皆殺しにしたのも、かなり怪しい。
どう考えても怪しいのに、そのペトラスが土地持ちになったことを祝うパーティーにドレスアップして出かけるルーシー。
ルーシーとデヴィッドの前に現れたペトラスが、飲み物もすすめずに言うセリフにゾクっとする。
「もう犬はいなくなった。もうおれは犬男じゃない」

ルーシーは襲撃者達に何をされたかを決して語らないが、事件の後、自分の殻にこもるようになってしまう。

これが、あの“訪問者”どもが勝ちとったものだ。これが、自信ある現代女性にやつらがしたことだ。噂は染みのように、地域中に広がっていく。広まるのは彼女の語る話ではない、やつらの語る話だ。やつらが物語のあるじなのだ。彼女をしかるべき役につけ、女の役割を思い知らせた。

ルーシーは襲われた時、彼らから自分が憎まれていることを感じ、そこまで嫌われているということにショックを受けたと言う。
憎まれることのショックは簡単には消え去らない。しかしまたルーシーはそれを、白人女性である自分がこの土地にとどまるために支払うべき対価と考えなければいけないと思っている。 それがこの土地で生きるための、この土地のルールなのだと。

知識人として自負のあった自分がこの田舎の土地ではいかに無力かを知るデヴィッド。その足場がぐらぐらしてくるような感覚が読者にも迫ってくる。

そして物語の終盤には、私たちにはとんでもないとしか思えない展開が生じる。
面食らったデヴィッドは「われわれのやり方とは違う」と言うが、いや、私だったらそんな穏やかではいられない、と思う。
しかしルーシーに言わせれば、それもまたこの土地の流儀なのだ。

「なんという屈辱だ」彼はしばらくのちに言う。「あんな大志を抱きながら、こんな末路を迎えるとは」
「ええ、そのとおり、屈辱よ。でも、再出発するにはいい地点かもしれない。受け入れていかなくてはならないものなのよ、きっと。最下段からのスタート。無一文で。それどころか丸裸で。持てるものもなく。持ち札も、武器も、土地も、権利も、尊厳もなくして」
「犬のように」
「ええ、犬のように」

読後感をどう言えば良いだろうか。
決してこれで良しとはしたくない。だがそこで正義をふりかざした反感を抱くのも、なんだか空々しくすら感じる。
この小説を読んで感じる感覚こそ、「恥辱」と呼べるかもしれないと思う。

男の恥辱。女の恥辱。白人の恥辱。親の恥辱。そして人間の恥辱。
それらを一つの物語の形にまとめ上げたこの力作に、権威ある文学賞が与えられたことは納得である。