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『希望のかたわれ』 メヒティルト・ボルマン

オランダ国境に近いドイツの村。
農夫のレスマンが朝の作業をしていると、道を歩いてくる一人の少女の姿が目に入る。零下10度の寒空というのに、肩がむき出しの薄いドレス一枚だ。
何者かに追われているらしい少女をレスマンは家に助け入れる。

場面は変わり、ウクライナへ。
ここは、チェルノブイリ原発事故により汚染された立入禁止区域。
誰も住まないその土地に打ち捨てられた一軒の家に、ヴァレンティナという女性が一人で暮らしているらしい。
机の上にノートと鉛筆を用意し、ヴァレンティナは、娘のカテリーナに向けた文章を書きはじめる。

ドイツのレスマンとウクライナのヴァレンティナの物語は、交差し合うことなく続いていくが、その2つの縦軸は、女子大生の失踪という不穏な事件で繋がっていく。

この三年間でキエフ大学で留学の申し込みをした百名以上の女子学生が、行方不明になっていることがわかったのである。

ドイツに留学したいという夢を持った女子大学生を、ドイツの一流ホテルや高級レストランでのアルバイトを斡旋するというそれらしい話で誘い、西欧諸国に連れて行って強制的に売春をさせるという卑劣な組織犯罪。
どうやらヴァレンティナの娘カテリーナも、レスマンが助けた少女も、この犯罪に巻き込まれていると思われる。
この事件を捜査するキエフ警察の警部レオニードの物語が、第3の縦軸だ。

この三部構成が効いている。
ひとつの事件を共有しながら、それぞれに違ったテンポとテイストを持ち、物語を展開させながら交互に切り替わるので間伸びがない。
朴訥とした老人レスマンの揺れる心情は共感を誘い、レオニードの捜査は刑事ドラマのような進展でぐいぐい引っ張る。

読み進めるのが辛いのはヴァレンティナの物語だ。
ヴァレンティナは日課のようにノートに向かい、カテリーナに語りかける文章で自分の人生を書きつけていくが、そこに語られる愛国教育下の青春時代やチェルノブイリ原発事故により狂っていった生活はそのまま近代以降のウクライナの歴史であり、特に原発事故発生当時の不明瞭な情報や避難生活、汚染された家具や食材が闇で流通する様などの肉迫した描写には、作者の取材が伺われる。
過去を回想し悔恨を吐露するヴァレンティナの文章はそれ自体悲痛なものだが、物語の終盤に向けては、その先に待つものを読者だけが知っていることになり、読むのが本当に辛い。


この物語の「希望」は、雲に隠れる月のように頼りない。
少女達が救い出され再び笑顔を取り戻すという希望、事件が解決されるという希望、ヴァレンティナがたった一つの心の支えを失わないでいられるという希望。
読者はそれらの希望のかすかな光にすがり、登場人物と共に惑い、焦燥感に駆られながら読み進めることになる。
そして物語後半。レオニードは真相に辿り着き、ヴァレンティナの母の隠された過去とカテリーナの運命が哀しく結びつく。
最後まで息もつかずに読ませる見事なストーリー展開だ。

ほんとうはわかっていたの。夜の列車が動き出したとき、わたしにはわかっていた。でも希望が現実を無視した。希望には自分勝手なルールがある。

原発事故、人身売買という題材は実際に起きたこと、今も起きていることであるため、全くのフィクションとして手放しで楽しむのは難しい。それでいてなお小説を夢中で読む満足を存分に味わわせてくれる、優れたエンターテイメント小説だ。

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※関連して、こちらの本も紹介したい。読後時間がたった今でもその衝撃、内容の重みが消えない、忘れ難い一冊だ。
『希望のかたわれ』はフィクションのミステリー小説ではあるが、以前この本を読んでいたことで、今回の読書体験に深みが増した。