見出し画像

911 あの日、言葉を持たなたかった私たちは、けれど今日も歩き続ける

18年前の今日、私は友人の電話で目を覚ました。
「よかった、家にいたんだな。」
寝起きの頭では彼の言葉の意味がわからなかった。

うながされるままにテレビをつけた。
けれど、映し出されたものを理解することはできなかった。
煙を吹き出すビル。まっすぐに向かって来る機体。
声を出すこともできない私の前で、景色は変わっていった。

いつ電話を切ったのか、テレビを消したのか、全く覚えていない。
それでも私はコーヒーを入れてトーストを焼いた。
食べたけれど味がしなかった。いや、むかむかと気分が悪かった。
当たり前だと思った。信じられないものを見たのだから。

コーヒーカップをシンクにおいて着替え、近所の公園を目指した。
丘の上にあるそこからはローワーマンハッタンがよく見える。
見慣れた景色の中で嘘のようにそこだけが、ぽっかりと「なかった」。
代わりに、真っ白い粉塵が嘘みたいに、高く高く立ち昇り、
それは風下である私のたちの町の方へと流れてきていた。

気がつけば公園は人で一杯だった。
誰一人口を聞く人はいなかった。ただまっすぐに前方を見つめていた。
恐ろしいほどの静けさの中で、秋晴れの空が真っ青に輝いていた。

あの日の私たちは言葉を持たなかった。
何を言っていいのか、わかる人なんていなかった。

やがてブルックリンの上空は白く霞み、焼けこげた異臭が広がった。
なんだかずいぶんと気分が悪かった。それもまた当たり前だと思った。
大きな衝撃が誰もを覆いつくそうとしているのだから。

けれどむかむかは、その日からますますひどくなり、
もしやと思って手にした検査スティックは、陽性を指し示した。

交通が麻痺したままの町で、夢から覚めたように人々が動き出していた。
あちこちでキャンドルが灯され、人は集い支えあった。
気分が悪くて外出することもままならなくなった私は、
ただただその声に、音に、耳を澄まし続けた。

多くの命が失われ、人々の嘆きの声が深まる中で、
自分の中に宿った命のことを口に出す勇気がなかった。
悪さをした子どもみたいに、どうしていいのかわからなかった。

そんな私にアメリカ人の友人が言った。
素晴らしいわ!声を大にして言いなさい!私たちには今、希望が必要なの!
残された私たちは、傷を抱えて歩いていかなければいけない。
重い足取り、痛んだ心と体、それでもその先に光があるのなら、
たとえゆっくりでも、必ず歩いていけるのだからと彼女は言った。

2002年、一番多かった子どもの名前はHOPE。
私たちの誰もが「希望の光を求めた」、そのあらわれだった。

3年後にブルックリンを離れ、ロングアイランドに引っ越したけれど、
この町はブルックリンよりももっとあの日の悲しみを抱えていた。
消防隊員に警察官、どこよりよりも多くの人たちが駆けつけて、
そして帰ってこなかったから。

911のセレモニーに、今も涙が乾くことはない。
けれど私たちは今日も生きている。明日に向かって歩いている。

子どもの性格と言うのはその学年によって個性があるように思う。
2002年の彼らは静かで大人しめで、けれど責任感があって優しい。
公立だから幼稚園からずっと一緒の彼ら、高校最終学年を迎えた今も、
変わらず思いやりのある子が多いのを肌で感じる。

それは、あの日私たちが望んだことだ。
心に渦巻くものを言葉には上手くできそうにもなかったけれど、
誰もが支えあいたい、一緒に進んでいきたい、そう求めあった。

私たちの想いは、この子たちの中にもちゃんと流れている。
キャンドルを灯しに行けなかった悔しさを抱えたままだった私の中に
息子たちの成長が、大切な火を一つ、灯してくれたような気がした。

時は流れ、景色は変わっても、傷は決して消えない。残り続けるだろう。
それでも支えてくれる人がいるならば、
私たちはそれを受け入れ、前を向いて歩いていける。
悲しんだからこそ受け取れたものを、次へと繋いでいける。

息子たちの作っていく未来が、優しく安らかで、
互いを包みこんで広がっていくことを心から願ってやまない。

911、今日もまた、空はどこまでも青く美しかった。


サポートありがとうございます。重病に苦しむ子供たちの英国の慈善団体Roald Dahl’s Marvellous Children’s Charityに売り上げが寄付されるバラ、ロアルド・ダールを買わせていただきたいと思います。