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【エッセイ】ペルセポネーの微笑み〜虎吉の交流部屋プチ企画〜

年に数回、私は一枚の絵を前に考えに考える。買うべきかどうか。巨大な薔薇の冠の下、一本角の黒い獣を抱く、冥界の王妃、ペルセポネーの絵。その顔に微笑みはない。大きな瞳でじっとこちらを見ている。

彼女の母は豊穣の女神デメテル。この母の喜びが大地の恵みであり、それは娘が地上へ帰還する時期だけのもの。すなわち、この世界の実りはペルセポネーによって始まる。彼女こそが豊穣、そう言っても過言ではないだろう。

いや、しかし、だから何だと言うのか。それがこの絵を欲する理由だとしたら、私は豊穣を実りを求めているのか。言い換えれば成果を求めていると? しかし成果は誰かから与えられるものではない。己で成し遂げなければ意味がない。

とにもかくにも、私は悩む。考えて考えて考えて、結局毎回見送る。なぜだ、なぜだろう、なぜこの繰り返し。作風が自分の趣味から多少外れているのは認める。けれど、それなら尚更だ。それを超えても思わずにはいられないもの、それはもう「好き」に分類していいのではないだろうか。

そこまで考えてさらに悩む。私は自分の「好き」に自信を持っている。それゆえ通常「好き」に関する決断を迷わない。けれどこれは……。ここで冒頭に戻り、堂々巡りの完成だ。謎が謎を呼び、迷宮入り決定。

こじれにこじれた案件か。しかしある意味吹っ切れた。わからないならそれでいい。その気持ちを大事にしようと思えたのだ。欲しいと思う、考える、そして見送る。欲しいと思う、考える、そして見送る。私はもう一人の私を静かに見つめる。

日々の暮らしの中にもたらされる実り。私の庭には実のなるものが多い。イチゴ、ラズベリー、ブラックベリー、ブドウ、リンゴ。初夏から始まる喜びの時間はけれどいつも順調とは言えない。実り切らない時もあれば、実りを譲る時もある。

収穫は少なかったけれど、焼きあがったケーキをその花で飾れたイチゴ、連日熟れに熟れて、ウオッカラムウィスキー3種類5瓶の果実酒となったベリーたち、大きく伸び上がって広がったものの、早々と乾燥してしまって野鳥たちを困惑させたブドウ、ようやく数を数える楽しみを味わっていたのに、日照不足で色づかなかったリンゴ。

一喜一憂、けれど今を生きていると深呼吸する。目で耳で指先で舌で心で、愛でるものは無数に、生活の中にもたらされたものは大きい。形になるものだけが実りではないことを改めて教えられる日々だ。

そんなこの秋もペルセポネーを見る。もはや行事だと笑いさえこみ上げる。庭の実りはともかくとして、私も何か生み出せているだろうか。誰かのものさしではない、自分の心のゲージ。満足かどうか、それは己にしかわからない。自分が手にしたものの価値は自分が決める。

豊穣に愛されし王妃との対峙は、自分と向き合う時間の象徴なのだろうと思った。求めているのではなく問いかけている、確認しているのだ。もちろん納得のいく答えの時もそうでない時もある。けれど自然と同じ。そこにたどり着くまでの過程が大切で愛おしい。よってどの答えにも満たされる。足りないものはこの先の伸びしろで、落胆は次回へと持ち越した喜びだ。

ペルセポネーは今回もまた、黙って去っていった。けれどふと、その頬にかすかな微笑みが浮かんだような気がした。行く先は冥界だろうか。北の街ニューヨークの秋は駆け足で、あっという間に季節は深い眠りの中へと沈んでいく。目覚めの時までは長く遠い。けれどそれは新しい実りの始まりだ。さあ、私もまた、新たな挑戦の一歩を踏み出そう。


虎吉さん、虎ちゃんの企画に参加です!
今回のお題は「実」。
実りといえば秋ですが、
中身は夏の話だったり神話だったり……
まあ、心に実ったものということで。


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